すべてはバランス

車を大破させたことが二度ある。180sxというMTクーペに乗っていた。

大事故だったけど私は二度とも無傷で、人身事故ではなかったから運よく誰も殺してはいない。でもあの時だって二度とも別のところに意識があったことを記憶している。そうして多分動物は緊張と集中を欠いたときに何かを起こす。

何かあったのではないかと電話の相手を心配していた。その意識の方向がチビタンではなかったことは確かだ。

誰かを助けると誰かが泣く。バラのためにアブラムシを手で潰す。今年も私はアブラムシを殺すだろう。相手を心配したらチビタンに注意を払えなかった。私たちが美味しいと言って食べて幸せな気持ちになれば豚も牛も苦しんで死んでいる。

今までだってずっとこうやって私は生きてきたけど、今回は本当の意味でそれが腑におちた。人間に善人なんていないっていうのが私の理論だけど、相手がニンゲンでなくても私は生きている分だけ殺し続けてる。誰かを助けたら誰かが泣いているかもしれない。私は人を助けることもできるかもしれないけど、一方でこうして大切な仲間を殺した。彼らは小さな体だけど、ニンゲンのように動物に優劣はつけない。私と一緒にいたいという気持ちはそれぞれから感じている。どうして人間なんかを信用するのかわからないけど、そんな仲間を殺してしまった。

私は身をもって、自分が善でないことを証明する。こうして今日も何の咎めもなしに生きている。 チビタンは何も悪いことはしていない。私にくっつきたかっただけなのだ。娘は私をとがめない。だけど私が人間だからいいということではないと思う。チビタンが動物だからいいということではないと思う。ニンゲンが「命」に優劣をつけているから、私は刑務所に入らないだけのこと。

緊張と集中を四六時中保つことは難しいけれど、大切な人といるとき、大切な人に会いたいとき、それを忘れないようにしたい。 そして、自分が世界のこの一点で行う安易な行動がいかに世界の何かに影響を及ぼしているかを自覚することが大切であると思う。

一緒に生きるということが、いかに人生にとって素晴らしいものなのかをココに教えてもらったような気がする。いくらあるかわからない一度のこの人生の中で、たとえ数か月でも数年でも、たとえ一日限りだっとしても、確かに一緒に生きていたんだというその事実は自分の大きな財産となる。それが人であっても、動物であっても、植物であっても、風景であっても。

人を羨んで妬んで、意地悪して、動物虐待して、戦争やって拷問やって。そんなのは馬鹿の極みだ。きっと彼らだってつらいのだと思う。でもつらいなら、それをやめればいい。いますぐやめればいい。心のバランスを保つために、誰かや何かにあたっても、不幸しかよばない。

私は今までどおり、自分が殺戮者だという自覚をもったまま最期まで生きようと思う。生きていたなら救えることがある。生きていたなら奇跡も起こせる。 殺人鬼にだってきっとそれはできるのだと思う。

私は多分自分を赦せない。でも許さなくていいのだと思う。それを正当化してしまったらなんの教訓にもならない。罪は死にまで背負っていく。ただしその罪ごと自分を受容して逃げずに生きること。

全てはバランスで犯した罪の分だけ、人は何かを助けなくてはいけないのではないかと思う。

ニンゲンは考える葦だから。

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