随筆 25

忍耐力は人々が憧れる才能の一つだと思うし、継続力も同様のものだと思う。 

継続しているその人の背中を、人はきちんと見ているものだ。

時々、不平不満を言いながら強迫観念のもとで、忍耐力を自分の幸せとは真逆の方向に使い続ける人がいる。

時に継続力を、自分の幸せとは真逆の方向に使い続ける人もいる。

だけど、本人が気づけばある日突然変わることもあるし、変わることを周囲が許さないのもあまりにも冷酷かつ残忍だと私は思う。

知り合いの何かが変化すると、自分の心がストレスを感じる。だから心のバランスをとろうとする。

賢明な人はこう思う。あー、何か変化する気づきがあったのねと。そうでない人はこう思う。あの人おかしくなった、以前と違う……

また、諦めずに何かを継続している人に、いつまでたっても出来ないよね?と嘲笑する人。これって大抵、諦めずに何かをやり遂げたことがない人が発する言葉だ。

自分がやらないための正当化をするために、そういう人の価値観を否定する行為は、見るに耐えない。

よく、無理だと言う人の意見を聴くなといわれるけど、それはその言葉を発する人が無理と決めつけて諦めて来た人だという証だから。自分が無理だったとしても、何かを達成しようという意識を持つ人に対してその人が自分と同等レベルだと相手を決めつけるのは失礼でもある。

また、誰かと同じになる必要はないし、日々の生活をコツコツと積み重ねて死んでいくのも立派な生だと思う。

元は受精卵でも、分化して皮膚細胞として生きるか、心筋細胞として生きるかの違いのように、地球レベルで見ればニンゲンの役割も決まっているのかもしれない。

心臓があれば皮膚がなくても人間なのか?

また、皮膚があれば心臓がなくても人間なのか?

などと考えたらわかるように、どちらもあって全体を造っている。それに優劣をつけるから争って闘うわけで、常にどちらが偉いとか劣るとかの議論は無意味だと思う。

動物と人間を比べること自体もバカらしい。ペットとして確かにおかしな生活を強いられている動物には同情するが、システムに洗脳されてそれしか生きる道はないと思いこんでいる人々もさほどかわりない。

どうして、人間が優位だと思えるのだろう?

俯瞰的に見ていて思う。

何を基準に優劣を決めているのか考えてみてほしい。銀行通帳の印字の桁なのか日本人が決めた肩書なのか、知能指数なのか、ルックスなのか、車の数なのか、愛人の数なのか、それはどんな基準で決められたものなのか、ならばなぜ、ボランティアで行方不明者を捜索したおじさんを称賛するのか、なぜムヒカ大統領を素晴らしいと感じるのか、自分がやっていることは果たして本当に価値があることなのか、自分は何に洗脳されて、何を正しいと思いこんでるのかなどを熟考することが先決だ。日本のような国で生きようと根を下ろすのか、見ないよう聞かないよう目と耳を塞いでいるのか、そういうことを整理してから人や他生物を否定しないと、まるで自分が裸の王様のように見えていることに本人は永遠に気づかない。

いや、気づかなくてもいい。

知らない人は知らなくていい人生ゆえに知らない。

その人の幸せはそういうものなのだから、放っておいてあげるのが愛なのかもしれない。

とどのつまり、自分の役割に徹すればそれでよいと私は思う。

 

 

 

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