随筆 7

あの日、あの時もしそこに行かなければ…

出会いは、こうして数え切れないほどの偶然が積み重なって訪れる。

都心の雑踏の中を歩いていて、多くの人間とすれ違っても、人は「注目」しなければ誰も見つけることさえできない。

良くも悪くも注目したときにしか、私達の脳にはその姿は映らないようになっている。

何十年と歩いたはずの、駅までの道程。それでもその途中に住んでいる人を知らないし、道端に咲くたんぽぽを見つけられない。

いま、私の傍らに居る人と、どうやって愛し合うことになったのか。決して永遠に慣れることがないのは、この刹那の積み重ねがあまりにも奇跡的だとわかっているから。

私が息子を抱えて授乳していたあのとき、彼はこの世にまだ生まれてもいなかった。

子どもが三人も誕生したので、二度の結婚に後悔はしていないけれど、誰かと出会うためにまた、誰かと出会ってきたのだという感覚が、いつも強く自分の中に遺る。

この不思議な刹那の積み重ねが、いまを創っている。

もしもあのとき、娘が勝手にケージを注文していなければ。もしもあの日にココを見つけていなければ。もしもあの日、あの劣悪なペットショップへ行かなければ……

コニーサンと私は出会っていなかった。

彼らが人間に捕まって、彼らの母親が道具のように子供を産まされて、他国からコニーサンが送られてきていなければ。

いったい出会いは、本当はいつ、始まっているのだろう。

いま、この瞬間に、この世界で共に生きている奇跡や、自分の血肉となって殺された生命や、私に微笑みかけるすべての存在に、日々感動しながら、懺悔しながら、感謝しながら生きている感覚。

きっと自分も、コニーサンのように、昨日まで愛し合っていたのに、ある日突然、命が終わっていくのだろう。 

何もかもがどうでもよくて、しかし何もかもが素晴らしい。

富とは裸になっても持てるもので、本当は誰しもそれを持っている。

私は忘れなくてよかった。

生まれたときに感じた喜びを、きっとずっと忘れずに生きてきたんだと思う。

この都会の空が、あの美しいフィジーの夕焼けや、キリマンジャロの朝焼けと繋がっていることも、その土地の上に確かに私が立っていたということも、何もかもが私の一部になる。

 

そんなことを思いながら隣にいる人と一緒に空を見上げていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

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