群衆のなかにあって孤高をたもつ

いつも人に流されないようにしていたように思う。

「誰かがいないと寂しくて・・・・」

なんていう気持ちは子どもの頃からよくわからない。

「親に認めてもらいたい、見てほしい」

などという気持ちもわからない。

もしかたら、生まれたときから私にとっては、大切なことはすべて満たされていたのかもしれない。

でも周りを見渡せば、大人の言うことにも「先生」と呼ばれる人たちの言うことにも、納得できることは多くはなかった。

だから仕方なく、黙々と誰にも相談せず自分で考えた。

 

これが正しい

あれが必要だ

こうするべきだ

 

と叫んでる人々を見ると、そんなわけはない、そもそも人間という動物ができたときに、そんなもの必要なかったはずだ、と。

きっとどんどん便利になって、頭を使わなくなって、何が必要で何が不必要かさえもわからなくなってしまったんだ。

そして、要らないものをたくさんもって、それがなくては生きていけないと、全員思い込んでいるんだ。

もちろん、自分の生活も含めて、である。

 

自然と共生するのは、安全ではなく様々なリスクが伴うだろう。ある程度の身を守るための道具を創るところまではわかる。

しかし、本当にこんなに何かが必要なのか?

その紙切れをなくしたくないと必死につかんで、人を疑い、同種の仲間である人間同士さえ助け合うのではなく、争うその姿を、どうしても高等動物とは思えなくて。

 

そして、そんな国のそんな動物にうまれた意味を考えた。

 

自然の循環とは人間が考える以上に素晴らしいもので、例えるなら自分の体の中の物質は免疫機構や、受精卵がそれぞれの臓器や細胞をつくることに似ている。

 

誰かが払ってくれた税金のおかげで、義務教育をうけられたこと。

テレビや本があって、きちんと知識の種を得られたこと。

 

皮肉にもそれらのおかげで、そんな風に疑問をもてた。

 

怖かった。

 

どうして土をすべてアスファルトで塗り固めているのか。

 

便利ってなんだ?

本当にそんなもの必要か?

外見を一生懸命造るのはなんのためだ?

自分がおかしいのか?

 

あまりにも友達と話が合わなくて、合わせることに疲れはてた。

社会に出てもいつも多数の人の意見に、本意ではなくとも合わさないと仕事すら進まない。

自信をもってこれが正しいと胸を張る人に、どんな思い込みを持っているのだろう?という疑問しか持てなかった。

 

初めてFiji に滞在したとき、自分がここでは普通なのだと感じた。

やはり日本がおかしかったのだ。

私にとっては。

 

アフリカに行っても同様だった。

人々の瞳は違う。

誰かに執着しなくても、一期一会の流れのなかで生きていける。

 

もしかしたら、相手は人間ではなく、動物でも可能かもしれないと近頃は思う。

 

相変わらず日本人は、自分達が正しいと信じて途上国に様々なことを押し付けている。

そしてそれはなんのためなのか?

今、持てるものが本当に価値があるのか、それはなんの価値なのか?

 

そうしたら夫がこんな映画を探してきたのだ。

 

美しき緑の星   1996 フランス映画

 

こんなこと考えてる人がいたんだ。

 

とても嬉しくもあり

とても悲しくもある

 

賛否両論あるけど、私はこのような世界がいずれ来ると思っている。

原点回帰するしか最終的に道はないのではないかと。

 

そうなれば、人間は、相当数自然淘汰されるだろう。

私たち動物は種の保存のために子孫を産み循環させている。

 

できれば私が死んだあと、孫の代ではせめて、こうなってほしいと願う。

 

いや、その前に

これをやってみる価値はあるかもしれないと、密かに考え始めている。

 

そして、哀しいかな

どうでもいいことをいつまでも考え続けるこの様が、いかにも人間なのであろうと思うのである。

人と合わなくても構わない。

 

しょせん人は独りで生まれて、独りで死んで逝く。

都会の雑踏のなかに佇んで、誰とも心通わないこの感覚は、案外私にとっては心地いいものなのである。

 

そんな奇人変人の自分の幸せを願ってくれる子どもたちは奇跡で、私を好きで傍にいる人にも奇跡だと思う。

 

なぜ私をそんな風に思えるのか、私にはさっぱりわからない。

どこまで生きても

どこまで考えても

わからないことはわからないのだと思う。

 

今日も後悔なきように

妥協せずに生きよう

 

 

 

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