ブレる人とブレない人

物事には優先順位というものがある。

ニンゲン関係でも、仕事でも、勉学でも日々選択を迷うときがある。

大抵の人は、物事の本質を見ずに表面的な形だけに注目している。

外見に拘る人は、なぜ自分が拘らなければいけないのか、目立ちたい人は、なぜ自分が目立ちたいのか、子どもを「大学まで出した」という親がいるが、なぜ大学を出したいのか?責任転嫁する人は、なぜ他人に擦り付けたいのか?独りが怖い人は、なぜ独りが怖いのか?誰かを批判する人は、なぜ批判したいのか?権威にすり寄る人は、なぜそうしたいのか?

殆どは、自分の心のバランスをとる行為であり、それは言葉と行動に表れている。

それを、自覚せずに占いやカウンセリングや、セミナーに頼ったところで、多分あまり変化はないだろう。

それらを自覚して行動している人は、ぶれない。覚悟しているので、自分にこうしなければいけない、と無理矢理言い聞かせる必要もない。

生き物は、生まれて必ず死にむかっている。
自分のことを誰かに完全にわかってもらえることはない。わかってもらおうとするより、まず、自分を知ることの方が有意義だ。

大人が地に脚つけていないのに、その人の子どもが安心して歩いていけるかというと疑問だ。

私は、二十歳も過ぎた大人たちの悩みをたくさん聞いてきたが、誰もがあまりに、正しいとか善とか、綺麗事にこだわりすぎで、背景にある親の姿が会わなくても浮かんでくる。

人を許すことは、難しいと殆どの人がいうのだが、表面的なことよりも、根底まで考えてしまうとそもそもその人を恨めない。原因はどこまでも深いからだ。

昨日シェアした動物への行いも、表面的なかわいそうではなくて、根底から考えるとき、愛護することよりも、さらに大切なことがあるはずなのだ。

死に逝く大人たちが、子孫に何を遺していくのか。形態ではなく、もっと根本的なことなのではないか。

人のためと言う人ほど怪しい。それを掘り続けるとどんな理由であれ、必ず自分のために到達する。動物とはそういうものだ。

世間体と書いて、誰かが僕を見てる、私を見てる!と私の頭のなかでは訳されている。

自分が隣人の人生を監視していないはずなのに、自分だけが見られていると勘違いしている。みんな、そんなに暇じゃない。とてもポジティブな考えだと思う。

でも、上記の例のように、表面的なことに拘るあまり、自分のことすら見えなくなる。

自信とは、自分のことを自分で信用することだ。自分のことさえ自分で信用できない人を果たして他者が信用するだろうか?

なにも結果を残すことだけが自信になるのではなく、それより前に「自覚すること」が常々出来ていれば、いいも悪いもぶれずに進めると思う。

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