私と家族の自然治癒 2

なぜ自然治癒について書いているのかというと、その理由の一つが他者からの相談なのです。

個人的なことなので、いつどこで誰になどということは公表していませんが、医療従事者でもない「ど素人」の私に、様々な身体の不調のことで相談がくることがあります。もう10年以上も前からです。多い日は一日に数件あります。「信用」のうえにのみ成り立っていることですが、非常に責任が重く、ある程度まとめたいという意図もあります。また、ご自身で治していただきたいという願いも含めています。

 

相談内容は軽いものであれば、お子さんの風邪などの対処法、使用する薬や、食べものについてなど。

深刻なものであれば、癌や鬱、麻痺などについてです。

私はハーブや精油も使用するので、その知識を信用してもらうために、アロマインストラクターの資格はとりましたが、あまり資格は関係ないかもしれません。

私が行ったことで参考になるものがあれば、ご自身で判断して活用して頂ければ幸いです。

MY STORY 

 心臓病に至るまでの経緯は「私と家族の自然治癒 1」に書いたとおりなのですが、生まれた時から病弱だった理由はよくわかっていません。母の母乳があまり出ずに粉ミルクを飲んでいたと聞いています。牛乳は大嫌いで、小学校の給食で全員200cc1本飲まされることがとても苦痛でした。アレルギーはありませんでした。

 

食事に関してはかなり豪華だったと思います。週末なども両親が仕事で留守の際は、たいてい近所の食堂で食べていて、インスタントは数えるほどでした。パンは隣のパン屋のもので、当時ヤマザキや神戸屋のパンを買うのが主流の時代に、無添加の焼き立てパンを毎日食べていました。2歳くらいまではおやつに鶏レバーを食べていました。外食もエビの踊り食いや、舟盛りの刺身、ステーキ、手作りのハンバーガーなど、チェーン店には極力行かない家庭でした。おやつはケーキ屋のケーキとクッキー、自分で買う毎日のおやつだけは駄菓子屋のものでした。

 

ただし、狭い部屋で家族と来客がタバコを吸うので、来客の多い我が家はいつも煙が充満していました。ですから私はタバコを原因のひとつと疑いました。息子たちが産まれた後、彼らの父親(最初の夫)がタバコを吸っていたので、外で吸うか、換気扇の下で吸うようにしてもらいました。娘の父親(二番目の夫)に関しては、交際した直後に「タバコは嫌いだ」と伝えたらやめてくれました。

 

私が実家で暮らした18年間、母は合成洗剤と化学調味料を使用していました。実家を出てからは、私はそれらをほぼ使用していません。これが良くなかったのかどうかは別ですが個人的にはよくないと考えています。ただ、同じ環境にいた弟はさほど病気にはなりませんでした。私とは性格が異なるため、精神面も影響したのではないかと思います。

 

●出産と育児について

出産は満二十歳の時でしたが、心臓がよくないということで、医師、婦長さんなど7人がかりの分娩でした。当時はなにも確認されずに陣痛促進剤を使用していました。逆子の長男は、途中で首が引っかかったということで仮死状態で生まれました。すぐに酸素マスクをあて息を吹き返しましたが、体制がよくなくて、右手が動かず麻痺してのびきっていました。もしかしたら右手はもう動かないかもしれないといわれながらも、動くと信じて授乳で部屋に連れてきてもらうごとに、彼の右手をずっと撫でていました。退院するまでには何とか動くようになり安堵したのを覚えています。

 

母乳はよく出ました。3人の子どもは全員母乳で育てました。出産後の回復はとても早く、身体の不調も感じませんでした。心臓検診は、もう必要ないのではないかと思ったのはその頃です。ただ時々、胸が苦しくて立っていられないことがあったので、その際だけ病院で検査をしたという程度です。

 

続けて次男も出産しましたが、3,500gをこえる大きな子でしたが、回復は問題なく、長男の時と同じく、私も退院時には元の体重に戻っていました。

 

彼らが産まれてからは、和食中心で一日に30品目の食材を使用し、毎日青汁を飲ませて、濃縮プルーンをヨーグルトに混ぜて食べさせました。離乳食はベビーフードは使用せず、手づくりを心がけました。ただし普通の牛乳と、スーパーで販売するような食パンは使っていました。洗濯は粉せっけんですが、台所洗剤とシャンプーはまだ合成洗剤を使用していました。

 

風邪や気管支炎などに息子たちはよく罹患しましたが、自然療法はこの頃はあまり詳しくなく、昔ながらの「食事で治す」という方法を調べては、薬と併用していました。中耳炎が二人とも酷かったので、耳にいいという「黒豆」を買ってきて、毎日家で煮て食べさせました。咳には「大根アメ」を作って飲ませたりもしましたが、医師から処方される薬剤はそのまま与え、予防接種もすべて受けさせていました。

 

幼稚園から帰宅した長男が、走り回っているのにところどころ顔色がおかしく、異変を感じました。5歳でした。その日のうちに高熱が出てきて、病院では「風疹」だの「溶連菌感染症」だの「結膜炎」だのと言われましたが、どれも違うのはわかりました。注射ですら泣いたことのない長男が、手の先や足の先にふれただけで痛いと泣き、顔がパンパンにはれ上がって40度近くの熱が何日も下がりませんでした。

 

医学書を調べると症状が、川崎病だと思いました。救急車で入院できる病院に行ってほしいとお願いして即入院しました。発見が早く冠動脈の閉塞は避けられました。医師から「川崎病は合成洗剤のアレルギーという説がある」といわれました。我が家は洗濯は石鹸、ほかもなるたけ成分のマシなものを選んでいたつもりで、それがとても引っかかりました。

「本当に合成洗剤が原因なのだろうか???」

このことについて自分なりの確信がもてるまでここから10年弱答えを探していました。この川崎病が、食事だけでなく、内分泌かく乱物質の排除など、自然治癒をめざしていくきっかけになったことは間違いありません。

 

●メニエール病と突発性難聴

25歳の頃、突然、両耳が聴こえなくなりました。目の前で踏切の音が鳴っていても、殆ど聴こえないのです。日が経過するにつれて、頭の中で「ガンガン」という工事現場のような音もして、危なくて息子たちを連れて買い物に行くこともままならず、長男に「車の音がしたら教えて」と頼んで外出していました。

 

耳鼻科には数年、離婚する直前まで通いました。メニエール病も併発し、加えて一か月に数回、呼吸困難で半身が麻痺するような発作にもみまわれ、救急車を呼ぶことも多く、医療費は毎月数万円をこえていました。

 

食事にはとても気をつかっていたし、おやつまで手づくりで、食べ物に関してはそんなに問題はなかったと思います。自営の仕事は徹夜で何日でもできました。何が原因でこうなってしまったのか?

 

そんなとき、耳鼻科の医師にいわれたのです。

「主婦があまりこういう病気にはならないですよ。なにか大きなストレスを抱えていませんか?そのストレスが無くならない限り、いくら薬を飲んでも治らないと思いますよ」

もう私は28歳になっていました。ストレスといえば一つしか思い当たりませんでした。ついに「離婚」を決意しました。なにか相手が悪かったという訳ではありません。私が彼を好きになれなかったというだけのことです。淡々と他人行儀に生活していた10年でした。病院に行くのをやめて離婚を遂行することにしました。強行突破で別居、最終的には財産はすべて渡して車一台だけ持って離婚しました。

 

治ったんです。嘘みたいに!

 

この時から一度も再発していません。ここから私はどんどん健康になっていきました。我慢は自分の身体をむしばむのだと思いました。「息子たちのため」という大義名分は、結果的に将来彼らを苦しめるだろうと思いました。別れても彼らとも関係性が変わらない自信が私にはありました。円満に継続できればもちろんそれが最善なのですが、それがもしもしたくないのであれば、不幸な母親を見て育つより正直に生きる方が彼らにとってもプラスだと考えました。そしてもちろん、死ぬまで彼らの母をやめる気はありませんでした。手話を覚えないといけないのではないかと考えるほど、耳が聞こえない日が続いた20代の頃、精神的なものがどれほど身体に毒を巡らせるのか、それらに気付くきっかけをこの時もらえたのです。

 

離婚後、交際し始めた二十歳の彼は酷いアレルギーでした。少し疲れると、体中に蕁麻疹が出て、それが頭から足まで一つになり体中がはれ上がります。子どものころからだそうで、痒さは尋常ではないと言っていました。一か月に数回このようなことが起こっていました。彼のアレルギーの原因を探ろうと思いました。

 

つづく・・・・・・

 

 

 

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