誰かのために、という想いは何を生む?

誰かのために○○したい!

→誰かの心をつかみたい。

 

その、本当の目的は?

 

誰かの心をつかみたい。

 

という気持ちはどこからわき上がってくるのだろう?

巷で人のためにという言葉を聞くたびに考える。

 

誰がどう生きようと自由であるはずなのに。

なぜ介入したいのだろう?

 

人生は自らの選択である

 

誰かと関わりながら生きていくとき、人の話を聴くときの価値というのは、単純にスキルを習得する場合以外は、体験に始まり体験に終わると感じている。

 

机上の空論は好きではなく、相手のもつ体験に私個人的にはとても、価値を感じている。

その人の体験と特化したスキルが、多分なんであれその人の人間性を表している。

 

ここで、不思議なのは

誰かのために

子どものために

人のために

その根底にある目的は?ということである。

 

自己満足?

自分の存在価値?

物質?

 

かつてボランティアを、していたことがある、6年間。

表面的には誰かのために、に見えるだろう。

根底は違う、自分のためだ。誰を見ても。

 

たとえ、我が子を守るために命を差し出しても自分のためだ。

 

全財産を投げ出して誰かを助けても同じことだ。

 

その傲慢さを理解しつつ、自分を律しながら、徹底的に個として考え、前提条件つきの現実で着地点を探す。

 

ニーズに応えることはあっても、決めつけと押し付けは傲慢ではないかと個人的には思う。人のためってある意味、誰かの持つ可能性を考えていないのではないかと。

だって人生の進みかたに正解なんて無いから。

 

 

「私はこう思う」

ということを信条にしているが、私の意見を命令と捉えている人が時々いて困る。

 

いや、選択したのはあなたです。

私は個人的な意見を話したまでです。

 

 

数学の方程式を教えて答えを導くことや、文字の読み方を教えること、食べ物の作り方や、食べ方を教えること、壊れたものの直しかた、など、生きていく上で、人は必要なことは、身に付けてきたはずだ。知らないということは、その人の人生には必要ないのだろう。

 

人は、人との関わりで優劣を自分の中で決めつけている。

人のために、確かに動いてる。みんな、誰かのために。

でも、結果自分のために。

 

まず、自分自身を完全に確立した場合、誰かの人生は気にならない。介入したいとは思わない。

 

日々の気付きの中で何かと出くわし

そうなりたければ、取り入れればいいし、なりたくなければ、自分の人生を自分で選択して進めばいいだけのことだと思う。そこに優劣は本来発生しない。

 

どんな人も、その命においては全員正しいと私は思う。

 

個人的な好き嫌いは誰しもある。これと正しい、間違いの混同や優劣の混同は、国語の教師の指導力を憂えるひとつの要因だ。

 

きっと誰しもが自分は正しいと思ってる。

 

究極論、全員正解!でいいと思う。

 

押し付けは傲慢だと思う。そして、教育と傲慢の狭間がわからぬまま、今に至る。

 

ただし、傲慢だと言われたとしてもその人にとってはそれが天国である。その世界をその人は好きなのだ。個人の幸福を誰かがが決めつけるのはおかしい。そこは全員が平等であっていいと私は考える。

 

きっと私の幸福と周り全員の幸福とは違う。

 

個人を認めるということは

究極はなにもしないこと

 

でも、もしも自分が何かを得たいなら、人のために何かをすれば、自分に還ってくるという循環が起こる。つまり、自分のためになる。

 

だから、人のためという言葉はそういう意味で存在する。

 

もっと突き詰めていくと、人間だけでなく宇宙規模で

起こることはすべて必然

に繋がっていく。助けることも、押し付けることも、なにもしないことも···

 

 

 

 

 

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