自分を生きてみる

思い返す幼少期・・・・・・都会の中の下町。

空を見るのが好きでした。

毎日銭湯に通いました。

道すがら、星をよく眺めていました。

都会の空でも今よりずっと星は見えました。

いつも星座を探していました。

 

夏の暑さが好きでした。

扇風機しかない家の中で、じっとりとした汗をかきながら、ぬるい風に当たるのも好きでした。

 

休日の昼下がり、近所の『音』を聴いていました。

平和な生活音が好きでした。

子どもの声は好きだったけれど、群れることは好きではありませんでした。

友達と遊ぶことよりも、一人でいる方が楽でした。

 

記憶に残る幼稚園の教室は緊張の箱・・・・・・

私の髪をひっぱって笑っている男の子。

笑顔を見せる余裕もない担任の先生。

ブランコの後ろから突き飛ばしてくるこども。

「どうしてわからないんだろう?そんなことして何が楽しいのだろう?」

どうして人の嫌がることをして喜ぶのか。

子どもの感覚がよく分かりませんでした。

 

親は独りのニンゲンとして捉えていました。

『甘えたい』とか『見てもらいたい』という感情の記憶は全くありません。

参観日は親が観たいから来るものであって、自分はいつもと何も変わりませんでした。

褒めてもらうために何かをする人の気持ちも理解できませんでした。

 

『自分で考えて自分で決めている』という感覚は小さい頃からあります。

父には年中『責任』という言葉を聞かされました。

6歳の頃、母に無理矢理通わされた習字の塾は1か月でやめました。

我慢しすぎて夢遊病のようになり、母は二度と私に無理強いすることはなくなりました。

10代で死ぬかもしれないと小学生の頃医師に宣告されたことも、感情の抑揚なく聞き流しました。

死ぬかもしれないなら『どう生きるか?』ということを考えました。

泣いたり喚いたりしたことはありませんでした。

 

無人島で一人生き抜けるような強さ

という目標は小学生の頃にきめたものです。

今日死んでもいいように生きよう

というのもその頃考えたことです。

ニンゲンごときに人間のことなんてわかるはずがない

と考えたのも幼少期。

だから人生のテーマが真実の追求になりました。

 

私も含めて単なる生物の一種のニンゲンが真実なんて大それたこと、死んでみたってわからないかもしれないと今も思います。

生涯かけても時間がたりないかもしれない。

永遠にわからないかもしれない。

だから真実の追求をテーマにしたんですね。

 

これらは、いまも変わらない私の価値観です。

幼少期に持っていた疑問や、美しさに対する軸みたいなものは常に生きる指標となります。

 

バブル期に友人たちは派手にしていましたが、流行のテレビも、食べ放題も、合コンも、ブランド物のBAGも、さほど価値を感じたことはありません。

加えて学歴や、肩書や、誰か個人の生き方にもあまり興味がありません。

他人のスキャンダルにおいても全くと言っていいほど興味がありません。

 

淡々と生きることが子どものころから得意です。

 

自分がどう生きるか。

自分が美しいと思うものは何なのか。

自分の価値を置くものは何なのか。

ここまで命を繋いでくれた先祖と殺した数々の生命のために自分の命を無駄にしないようどうエネルギーを使うのか。

人間という生物の、地球における立ち位置はどこにあるのか。

地球の一部として融合しどう共生するのか。

 

つまりは自分がどう生きるかが価値基準です。

 

だから誰がなにをやっていても、心は安定しています。

他人軸で生きる人は、心が定まらず不安や不満を心に持ちがちです。

他人と自分をいつも比べて、自分で自分を苦しめているように見えます。

 

モノや地位など何かを欲する心の状態も、そう思った時点で、満足できる状態をその人が手に入れることはないと思うのです。

そういうものは本来、ひとりでにそこに結果として置かれるものであって『欲しがって手に入れる』ものではないからです。

 

来る者は拒まず去る者は追わず

 

ニンゲンは地球上の単なる生物の一種ですから。

 

優先順位を間違わぬよう

自分の命を他者にあけ渡すことのないよう

刹那を歓喜で生きているなら

どんな人でもその人の命は輝いているように私には視えるのです。

 

途上国へ行くといつも思うのです。

彼らはなぜあんな風に瞳が輝いているのかと。

 

もしかしたら、自分を生きているからなのかもしれませんね。

 

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

 

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