目には見えないもの

私達は、心というものを自分で認識しています。

 

例えば、誰かを好きだという感情。

 

他に、喜怒哀楽や、羨望、虚栄、妬みやっかみに至るまで、心の動きを自分で感知し、それを素直に表現したり、婉曲的に振る舞ったり、天の邪鬼になってみたり、綺麗事で飾ったりします。

それらは……

すべて、目にみえないモノ、ではないでしょうか?

 

きっと誰しも生まれてこの方、そんな心の動きを継続的に感じて生きてこられたのではないでしょうか?

 

そのエネルギーの使い方によって、私達は様々な結果を得られるのではないでしょうか。

 

またこれらは血をこえて、種をこえて通じるものでもあり、霊体が視えたり、誰かが逝ったあとに起こる、ポルターガイストのような現象もなんとも説明がつきません。

 

証拠を求めるために

「目にみえないものなど信じない」

と言う人にも時々出くわしますが、自分の中の目に見えないものを感知しておきながら、目に見えないものを信じることができないとはとても矛盾しています。

 

人間の60兆個(現在37兆個ともいわれどっちでもよいですが膨大な数です)の細胞が、まさか、地球の生命体のことをすべて把握できるほど宇宙は単純ではないだろうし、何もかも根底から、人間の認識が間違っているという可能性も捨てきれません。

 

だから、人間のみが創造したエビデンスなるものを盲信するわけにはいかないし、それと知的好奇心を満たして遊ぶこととは別の次元で考えなくてはいけないと思うのです。

 

言葉で表すものと、この目に見えないエネルギーとは必ずしも一致しません。

 

皆さんもご存じのとおり、綺麗事とは自分の心が綺麗でないと認識している人が使う誤魔化しの手法です。

 

浮気を隠すことも、自分の心を認識しているがゆえの行為であり、責任転嫁は、事実を受容したくない人が目の前の報復しないであろう優しい人に、自分の心のバランスをとるためだけに責任を擦り付ける行為です。

 

人は自由に生きることができます。

 

誰かに何かを強制しおしつけたくなる支配欲は、その人の心の動きが大きく関与しています。

 

その目に見えない想いを、私はエネルギーと称しています。

 

このエネルギーには、数軸のように、ゼロからみてプラスとマイナスがあるように見えます。

 

折角、殺して口にした命がエネルギーを産生してくれているなら、自分にとってプラスにそれを消費したいと私は考えてきました。

 

自分の腸内細菌さえ理解できていません。

 

水の本当の力も理解できていません。

 

植物の壮大さも、昆虫の目的も。

 

みなニンゲンもしくは誰かの想像したお話がベースです。

 

なので、目に見えることはほんのわずかなのでしょうね。

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

 

 

今日も私の命のために、死んでくれた生命すべてに、感謝の意を表します。

 

 

 

 

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