誰かが笑えば誰かが泣いている

夫の言葉です。

誰かの笑顔のために誰かが涙する場合もあります。

「人のため」という言葉。

誰かを笑顔にするために、世界の何処かで泣いている人がいるかもしれません。

言葉を発する本人も「人のため」に行動していると錯覚してしていることがあります。

動物は己のためにしか生きないものです。

Win&Winとか

三方良し

などという言葉が「ビジネス」の社会ではよく使われていますが

それも深く考えるなら綺麗事なのかもしれません。

他生命に想いを馳せたら「悪」でしかない場合もあります。

また人間に限ったとしても、途上国の人々や先住民、7代先の子孫にとっては迷惑な「ビジネス」が殆どかもしれません。

 

しかしながら、地球の視点で考えてみるなら、個人がそれをジャッジすることは絶対にできることではなく、地球が存在を赦していることをイチ個人がジャッジできるわけはないのです。

 

生きることは殺すこと。

 

先祖代々、数え切れぬ生命を殺し、血肉とし、あなたや私の存在がいまここにあります。

 

善人などこの世にはおりません。人間とは傲慢で、利己的で「優しさ」などとは本来は程遠い生き物なのだと思います。

 

とどのつまり、生き物は、徹底的に「利己」で生きるしかないのでしょう。

 

人のためと言いながら「支配欲」が潜在意識に強くあったり、だれかに承認されないと「存在価値」を自己に見いだせない不安が言葉に表れていたりするものです。

 

逆をいうなら、支配欲や承認欲がなくても、自己をしっかりと生きていれば、何かに一喜一憂し、自分の生き方がぶれることもありません。

 

徹底的な利己を貫くとき、本人にも、関係する人々にも、また人間以外の生命にも、本人の満足と同じほどに悲しみが存在します。

 

個の幸福を追求したときに同様に存在するのは誰かの悲しみであったり、そのものの悲しみであったりする矛盾が生じます。

 

自分を貫くには、それを受ける覚悟が不可欠です。

 

それでも徹底的な利己が、転じて何かのためになるとするなら、それを見た他者が

 

自分を生きる

 

ということに他ならないのではないかと思います。

 

他者の目や価値観を気にする人が多いニッポンですが、第三者の人生をじっと見ている人などいません。

誰が死のうと、人は生きていきます、

 

先祖から殺してきた生命の数々のためにも「自分を生きる」ことがその責任ではないでしょうか。

 

たとえば、誰かを傷つけることがあったとしても。

たとえば、涙を流すことがあったとしても。

 

 

今日も私たち人間のために死に逝く生命と、間接的に日本人に殺されて逝く人々に懺悔と感謝を。

 

今日も皆さんありがとう

Pocket

0 comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です