木を見て森を見ず

よく聞く言葉ですね。

ニュースなどで責任を追及する際や、問題解決の根源を探るときなどに、視点がずれた人に対して投げかける言葉ですね。

皆さん意味はご存知だと思いますが、念のため説明。

木を見て森を見ず

物事の細部にとらわれていて、全体を視えていないようす

俯瞰的に物事を見ればわかることを、一部に拘るがゆえに視野が狭くなり、頓珍漢な意見を述べる・・・・というようなことでしょうか。

ですがそのような言葉を発してはいても、森を見ている人はあまりいないように思います。

逆に、徹底的に小さなものにフォーカスした方が、全体像も難なく視えると思うのです。

木を見て森が見えない人は、多分、木の見方も中途半端なんでしょう。

例えば、徹底的に昆虫を観察するとか、埃について考えるとか、雑草一種を追い求めるとか、自分の細胞の自然治癒力を観察するとか、親子の遺伝について検証するとか、ペットを玩具ではなく対等な生物として観察するとか、家畜の気持ちと動きを考えるとか、日々出会うそのような一部の事柄を真摯に思考して生きていれば、生き物についての共通点、つまり本質が見えてきますよね。

親が子の選択と判断で教育を進めるのではなく、自分の価値観をおしつけるコントロール型の場合、その子はまた子をコントロールする親になり、学校でも町内会でもPTAでも、商店でも企業でも、自治体でも、国でも、他者をコントロールすることが「スタンダードな日本人の生き方」になります。だから同類のホモ・サピエンスなのにそれを忘れ、偉そうに指示をしたがる大人で溢れかえるのです。

長が指示して部下が動かされた・・・・・などという問題も、社会全体が誰かの指示がないと自分の命を全うできないと思い込んでいる塊なので、起こる事象です。相手が組織であろうと家庭であろうとまったく同じ問題が起こるのです。

乳幼児は確かに逃げることができないかもしれません。ですがその精子と卵子で出来上がった身体なので残念ですが逃げようもありません。

自分で考えて解決できることは山ほどあります。誰かに強制され自分の人生さえ思ったように生きられないという選択は多分、幼少期から続く思い込みなのでしょうね。

食べもしないのに捕まえてきて、ショーをやらせたりして動物さえコントロールしますよね。そしてそのコントロールされた姿を喜んで観に行くニンゲンが大勢いるわけです。

事件が起こるたびに責任追及という言葉を聞きますが、この島の民のスタンダードな思考を放置しておいて、ひとつの組織の長を引っ張り出しても、傍観者の私たちがそれを創った要因のひとつでもあるので、本来は個人を批判できるものでもありません。

森は自分ですね。

自分がどのような遺伝子で生まれ、何を食べて脳を造り、腸を造り、身体を造ったのかなどをきちんと考え、どうして文句を言いながらも傍観するのか、個人を批判したいのか、いったい何を思い込んで生きているのかなどを、熟考してから意見を述べたいものですね。

木を見て森を見ず・・・・・ではなく「木さえきちんと見ないから森も見えない」という必然の結果なのかもしれません。

ニンゲン社会に限って言うなら、個人を批判する前にその社会の一員である自分が何をしているのかを直視しましょう。

その「自分」の集まりが森なので、決して国の中枢にいる人だけに責任があるわけではありません。

そしてそんな類に荷担しないためには、誰がみていなくても自分だけは真っ当に生きるように努めましょう。

そうすると、家庭が自立した人の集まりになり、自分で選択判断ができ、村もそうなり、自治体も国もそうなっていきます。

木と森の質は同じですし、地球も同じですね。

「自分」の生き方が「全体」を創ります。

日本のやり方が世界に影響します。

ニンゲンの生き方が他生物にも影響します。

もし社会のことで辛く悲しいことが起きたら、自分の襟を正しましょう。

全員がそうすれば、世界は変わるのです。

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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