ゼロに戻る

「ゼロに戻りたい・・・・」

その人の言葉の真意を私はすこし取り違えていたようだ。

人は生きている中で、ふと立ち止まりたい時がある。

振り返りたい時もある。

何もかもをリセットしたい時もある。

 

日本人はほぼ全員、システムに洗脳されている。

それを常に頭に置きながら、誰にも支配されない世界を目指している。

これを時に人は「生きる力」と呼び、「自立」や「自律」などとも呼ぶ。

 

この脳の靄みたいなものをクリアにする作業は、生きる目的のようなもので、人生に関係のない他者の動向に一喜一憂するよりも、血肉として殺してきた数々の生命を活かすためにもそれに命を使いたい。

それが私なりの懺悔であり感謝である。

 

支配欲や虚栄心、善人仮面を被ること、狭い世界観の中でのみの他者との闘いなどで「優位」に立つことなどは、さほど人生には必要もなく、徹底的に自分を追求することが、個の満足につながると信じている。

 

ネガティブだと自分を評価する人は、他者との間で大抵「優劣」を決めつけていて「正誤」もジャッジしている。

自己を劣性だとみると苦しくなり責任転嫁する。自己を優性と判断しているときも「誰もわかってくれない」と責任転嫁する。

つまり優劣を決めている自信過剰な人は責任転嫁する。

 

どうでも良いことなのだ。他者の判断など。

 

目指す人間との関係性は、自分を貫く者同士の自然発生的に起こる相互扶助である。

ここに介在するのは好き嫌いだけであって、支配ではない。

 

だから害になるのはコントロールである。

 

二者の間にある支配関係は、日本の母子によくみられる。あれは子どもを自分の所有物とみている表れなのかもしれない。

幾つであっても相手は自分とは「別の人」だ。物理的に守ってやらないといけない状況は発生するが、相手の人生を自分のものとするのは愛ではないと考えてしまう。

自分の人生を、不本意にも親にあけわたさないといけない子どもたちの悲しみ。

自分の孤独の穴埋めや世間体を繕うために、誰かに何かを強いることを愛とは呼びたくない。

 

友人であっても、家族であっても同様、たとえ100人中100人がおかしいといっても、本人がDV男と一緒に生きたいというなら、それはその人の自由である。

愛人が4人いるという知人がいたが、それも彼らの関係が成り立っているなら他人がわざわざその関係を潰しに入る必要性が見当たらない。

 

人の幸せは嬉しいものであって

人の不幸は悲しいものである

 

その絶対的な個々の命の尊重があるうえでの共生が互いの平和に繋がっていくだろう。

 

去る者追わず 来るもの拒まず

 

ゼロに戻りたい

生まれた時からの洗脳をときたいに近い。

 

世間体や綺麗事など、そもそも人を騙す行為にしか感じられず、あの文化が好きではない。

虚構のない世界では、よくないと思うことがあればしなければいいというシンプルな発想になる。

 

 

幸福=長く生きること

ではない。

 

ゼロに戻るという言葉は

自分に還る

ということなのかもしれない。

そういう人を見ていたい。

なぜならそれが人にとって一番幸福な道だと感じていたから。

 

そして、システムに洗脳されずに、何かをどんどん体現していけたなら面白い。

 

新しい世界を創ろう。

 

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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