何かを手に入れるには何かを棄てることが必要なのか?

世界で名を知られている芸術家が、作品のために家族すら犠牲にしたなどという話を、皆さんも耳にしたことがあるだろう。

 

昔、芸のためなら女房も泣かす、という歌が流行ったこともあった。

 

確かに、何か創作活動をしている人が、何においても対象にしてしまう気持ちはわからなくもない。

 

ホコリ一つでも、創作の対象になり得る。

 

私のように、ノンフィクションを書いたりすると、作品は人生そのもので、出会ったすべての人、過去全てを肯定し感謝することでしか、それは形にできない。

 

リアルタイムで動いている時間や、家族ですら登場人物となってしまう可能性を常に孕んでいて、今書こうとしているノンフィクションは、ラストシーンがどうしても決まらない(つまり何らかの着地点が見つかっていない)ので、書き進めないというジレンマに陥っている。

 

辛いことや悲しいことが起きても、客観的俯瞰的な目線が常に私の松果体から離れなくて困る。

 

だからといって、個々に対しての私的感情は深すぎるほどに深く、どちらかというと、彼らと共に生きたこの時間を無駄にしたくないという想いの方が強いのかもしれない。

 

ノンフィクションゆえの、記憶の定着と、過去のその瞬間へのタイムスリップで、目の前の人ではない人との時間を、いま感じている状態で、ふと顔を上げると現実の時間に戻る。

 

そうすると、そのギャップがとても大きすぎて、筆が一向に進まない、なんてこともある。

 

作品のために誰かを犠牲にしたりするのはやはり本意ではなく、そこに登場する人々と幸福を共有していく人生を創りたい。

 

かつてWebで公開していた22歳下の男性との純愛と、同じく22歳下の旦那との話を知人にしたところ、なぜか辛くなったようで彼女が泣き始めたのだ。もう18年の付き合いになる人で、私の生活や性格をよく知っている。

 

ノンフィクションだからといって悲劇的なラストシーンは良くないのだなと感じた。

だから、あの続きを含めて、あのあと実際にあったことを加えて書こうと思うのだが、そんなことばかり考えていると、自分の人生を作品として見てしまう瞬間がある。

 

あまりに着地点が見つからないと、何かを手放さないといけないのか?と迷うときがある。

 

しかし、手放しても運命は変わらない。

 

まるで、Webに公開していたパート1が思いがけずヒットしたから、無理矢理パート2を作ったような展開が今また起きているよねと息子に笑われた。

 

これが、小説ならそう言われるだろう。しかし、実話なのだ。

 

何かを手に入れるには何かを棄てるということは、大抵は本当かもしれない。でも、いつも例外は起こる。未来のことは、いつもこうだ。

 

やってみないとわからない

 

形は多数派が決めるものではない。

正解も多数決では決まらない。

 

私の人生は私だけのもので、あなたの人生もまた、あなただけのものだ。

 

個々それぞれに最善の着地点があり、それすら自ら創造すべきなのだと思う。

 

常に自分の思考回路を組み換え、新しい自分を自分で見出す。未来における予想は、ある意味ファンタジーで、それが実際に起これば、ファンタジーのような実話、ノンフィクションファンタジーなのだ。

 

どうせなら、面白くて楽しい未来を創ろうと思う。

 

私が考えるようなことは、どこかで誰かが考えていたりもするだろうけれど、とにかく、自分から産み出す世界に一つだけの創造物を創りたい欲求が強い。

 

それが私の人生なのだと思う。

 

自己満足に始まり自己満足に終わるもので全然構わない。

 

自分の人生を、きちんと納得し、丁寧に生きる。言いかえれば創ることでもある。

 

なんなら、皆さんも試してみてほしい。

 

 

とっても楽しいから。

 

いつ、書き上げられるんだろうなあー。

 

ほんの少しの予感と幸福の中で……

 

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

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