天才と気狂い 光と闇 リアルとファンタジー

世界は何もかもひっくるめて全部でひとつ。

どんなに辛いことも、どんなに酷いことも、どんなに悲しいことも、個人の感情では要らないと思ったとしても、世界には「在る」のですよね。

 

たとえば天才と気狂いは

よく紙一重と言われますが、天才の考えることは、凡人には理解しがたく、だからその人の肩書や資産などを人と比べてみないと、凡人には判断できるものがありません。

 

私はどんな人にも必ず得意なことはあると考えていて、それを才能と呼ぶならば、天才だけではなく、誰しも才能はあるはずだと思うのです。そんな中で、気狂いといわれる人の才能はまた、天才的ではないかと思うのです。

 

光と闇を例えるとき、ポジティブ&ネガティブとも置き換えることができますが、それには自分の力の使い方に気をつけるとよいと思います。自分の力を100%とします。もしもネガティブな方向にエネルギーを100%使っていたら結果は芳しくないかもしれませんが、同じだけプラスにエネルギーを使えばたちまち素晴らしい功績をあげるでしょう。力の使う方向をしっかりと考えることが重要です。闇が転じて光となるかもしれません。

 

現実や過去を「リアル」と定義するならば、思い描く奇想天外な未来予想図は空想、つまり「ファンタジー」と言えますが、これを信じて現実化させていけば、この人はファンタジーの住人ということになります。

 

未来は誰にとっても思い描いているだけのファンタジーです。過去の経験からリスクを恐れ、冒険せずに昨日と同じことを繰り返すことも、素晴らしいファンタジーを創って、それに則って生きることも、どちらでも選択出来るのです。

 

人はどちらかに正誤を決定付けしたくなり、善悪を個人の視点で決め、光をよしとし、闇を避けたがります。

 

私たち先進国民の生活は途上国の犠牲の上に成り立っているもの、食べるためではなく、実験やペット用に捕獲されたり、殺されたりしている動物の犠牲の上に成り立っているもの、他国の戦争ですら間接的に私たち個人個人が関与しているものなど、枚挙にいとまがありません。

 

ところ変われば、その価値観も変わり、本来は、何が善くて何が悪いかなんて決めることはできません。

 

この中庸が簡単ではないようです。ジャッジしないことです。どっちでもいい、何でもいいっていうのは、無責任なようでいて、他者を認める一つの方法でもあると思います。

 

 

天才か気狂いか?

光か闇か?

リアルかファンタジーか?

 

 

自由にしなやかに、起こることを淡々と受容しながら、今日に楽しみを見出していきたいものです。

 

 

 

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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