わかる人にはわかる

自分から産まれた人間を自分の所有物だと勘違いする人がいる。

 

婚姻届を出したら、相手は自分の所有物だと勘違いする人がいる。

 

離婚したら自分のものでなくなると思い込み、怖くて離婚できない人もいる。

 

まさに相手を所有物化している表れだろう。

 

愛が無くても独りになるのが怖くて「形」にしがみつく。

 

形がないと、もしくは相手が自分のマリオネットにならないと愛せないという人は、はじめから相手を愛してなんかいない。

 

形がどう変わっても、変わらないのが愛である。

 

相手が自分を愛しているかどうかは基準にならない。愛とはそういうものである。

 

愛とは独りだけを愛することではない。

 

愛する存在は増えていくものだ。

 

一度好きになった人を嫌いになることはできない。強いていうならさらに好きな人が現れるだけである。

 

親が受精卵から創造した思考が子どもの中で形成されていく。

思春期になり、ある日子どもが自分の思い通りにならないと気づいた親は、「友達が悪い」「学校が悪い」と大声で叫び出す。

みんな同じ学校に通っているし、習った内容も同じであるのに、どうして我が子だけがおかしくなるのだ?

 

異なるのはその子が食べてきたものや、見せてきた親たちの生き様だろう。

 

母のなかから産まれたとしても、母と同じ人間ではない。

 

責任

 

責任感とは他者に対する愛である。 

 

第三者が存在して初めて持てるものが責任感で、己一人で無人島にいたなら必要ないものだ。

 

仕事ぶりや生きざまをみていれば責任感が強いかどうかは多分誰にでもわかる。

 

責任感が強い人は他者に愛がある人である。

 

幸福な人は、人の優劣を決めたり、善悪を押し付けたり、他人のお金の計算をしたりしない。

心が満たされていて、自然発生的に他者に想いをかけることができる。

 

承認欲と支配欲からくる「人のため」ではなくて、何も考えずに淡々と他者のために日々動いている。

「人のために」
「私は母親だから!」
「子どもたちのために」

という人は、自らが声を大にしてそれを言わなくてはならない理由があるのだろう。

利他的であり、自主的に相互扶助する群れの中に生きている人々は、それらを声を大にして言う必要がない。

 

親だと叫ばなくても子どもは親だとわかっているし、一般的に知られるように、群れで生きることがホモサピエンスの特性ならば助け合いは自然の流れであるだろう。

 

善悪

私は他者の善悪を決めつけられるほど、素晴らしい生き物ではない。

私は他者の優劣を決めるほど、素晴らしい生き物でもない。

私は物事の正誤を決めつけられるほど、素晴らしい生き物ではない。

 

「謙虚」と自分を宣いながら、しっかり優劣を、善悪を、正誤を他人におしつけるのは、きっと、自分を誰よりも素晴らしいと思い込んでいるからに他ならない。謙虚とは、自分が大したことのない地球上の一生物だと知っていることだ。

 

人間は所詮皆人間である。

 

ヤクザから政治家まで同じ人間。
私にはどちらが善でどちらが悪かなんて決めたりできない。

戦争で人を撃つ兵士と、児童労働でとれたカカオのスイーツを食べる日本女性とどちらが悪でどちらが善なのか決めたりできない。

 

とどのつまり何であろうと、自分に正直に生きればいいと思うし、他者がどう生きていようとも、それらの存在を地球が認めていることが証で、誰かが強制的に何かを変えようとしなくていいと思う。

 

気づく人は気づいてその方向へ。気づかない人はそのまんま従来と変わらず。
それはそれでよいのだと思う。

 

目的によって、その発信はたくさんの人にわかってもらわないといけない場合と、そうでない場合にわかれる。

 

「わかる人にだけわかればいい」

というスタンスは、ある意味敬意であり、逆に正しさのおしつけは相手を馬鹿にしすぎる行為だ。

 

個人がどう生きるかは自由で誰に強制もうけない。

 

自分で選択して生きる権利が全員にあると思いたい。

 

そして皆が自分で選択した自覚をもって生きて、ときに悲しみがあったとしても、どうか幸あれと願う。

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

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