諦観

諦観(ていかん)とは諦めることではありません。

仏教用語だそうで、物事の真理、本質をしっかり見極める、ということらしいです。

何かが進まないとき、その原因は何なのかと本質を見極めたり、行いや思考を改めたりすること、それはある意味過去の自分の考えを覆すことにもなり「諦める」ということにも繋がるのですが、執着を棄てることはいわゆる「悟りの境地」に近づくことにもなると思います。

虚栄心、支配欲、過ぎた食欲や、過ぎた性欲などに多くの人が翻弄されていますが、前頭前野が発達していればセルフコントロールができるようになりそうです。

参照:前頭前野

頭が良くなると、多分ヒトも動物のように、最小限のエネルギーで最大の幸福を産み出せると思うのです。それはつまり、自己完結できる能力だと思います。

動物は自分のためにしか生きないのに「人のため」という言葉をつかう人は、往々にして承認欲や支配欲、虚栄心などを満たすためだったり、お金を手に入れる目的だったりすることがあるように見受けられます。

また、人々が群れを作るのは、死に対するリスク回避をするためでしょう。一人よりは多数の方が助け合えますし、知恵も享受できるでしょう。

けれども、群れを大きくすると不具合が起きているようにも見えます。

もしも他国を植民地にしたり「援助」などせずに放っておいてあげれば、その国の人々は今もバランスの良い数の人間がさほと自然も破壊せず、自給自足できちんと食べて生きていたかもしれません。先進国が自分たちを「優れている」やら「正しい」やらと定義した結果、余計に苦しめたのが世界の途上国であるかもしれません。

識字率100%に限りなく近い我が国の人々は最低限の知識を義務教育で得られます。テレビやネット、義務教育で世界のことを学ぶと、自分がいかに地球に迷惑な存在かを自覚せざるを得ません。

なぜそうなるのかと考えるとき、日本人は特に「頑張る」ことを美徳とし、他者の失敗を許さず、拝金主義であるからであるようにもみえます。

頑張ることの定義が動物たちのような「懸命さ」なら美しいのですが、自分が納得できていないことに我慢し、他者の顔色をうかがい、仕方ないと諦め死んで逝く……というパターンは非常に残念で勿体無いように思います。

その背景に、日本人の特性として「死への恐怖」が他の地域の人より強すぎるのではないかということが考えられます。だから「長寿国家」になっているのかもしれません。

参考:日本人がもつ恐怖遺伝子

 

「諦観」から考えると、昨今の事件や些細なことで起きるもめ事などを解決するには、本質を見極める目がそれぞれに必要なのでしょうね。

幸福感が無いのか、他者で鬱憤を晴らす人が出現し「村八分」「虐め」「セクハラ」「モラハラ」「パワハラ」などの言葉が生まれ、ひいては国会でも罵り合いが横行するような国になっています。

他者を攻撃するのは自身が自分の人生に納得できていないことが原因である可能性は高いと思います。ならば、やはり幸福を追求することが解決策なのかもしれません。

ただ、この幸福の定義が「銀行口座の印字の桁」だったり「地位」や「名誉」だったりするから、殆どの人は第三者の人生に一喜一憂し、悩み苦しみます。何十年もそんなことにかけるエネルギーがあるなら、最低限の自己完結できる仕組みを創り、さっさと自分だけ幸福になったほうが賢いかもしれません。多分それに何十年とかからないでしょう。

家族がいるなら家族との価値観の相違が重要になり、配偶者と大きく価値観がそれていく場合や、努力しても同じ方向に行けないと判断したときは、幸福から遠ざかるのみなので離婚することにもなるでしょう。

そもそも結婚とは相互に扶助し、幸福になるために共に生きる決意だと私は考えています。その目的を大きく外れてしまうときは、残念ながら離婚も厭わないでしょう。ただし、とことん議論し子どもたちのことも考え、傷を最小限にする努力は怠ってはいけないと思いますけれど。

家族は相互扶助できる一番小さく、そして重要なコミュニティです。

例えば、それぞれがきちんと自分の得意なことや役割を率先して引き受け、議論を重ね、ビジョンが「長生きすること」ではなく「幸福な人生を終えること」であるなら、家族がいくら増えてもやっていけそうな気がします。

小さな村単位で、教育が得意な人、食事管理が得意な人、お金を稼いでくる人、体力仕事が得意な人、統率力のある人などで役割分担すれば貨幣は必要なくなるかもしれません。だけど、そこに一人でも依存者が混じると、このバランスは崩れてしまうのです。ここに必要なのは「信頼」と「自立心」だといえるでしょう。

信じることは愛することだと思うので、必然的に愛のある人々ということになります。もちろん人間だけでなく、このコミュニティには対等な動物も参加可能だと考えます。無条件に愛し合えるのは人間でなく動物の方が容易だと思います。心身の健康のために互いに愛し合える他生命は今後の私にも必須です。たとえそれが時々訪れる野生の鳥であったとしても。

「奇跡は準備ができたものにだけ訪れる」を出版しようと考えたのは、物理的にどうみても不可能だと思えたことに息子が応えたからです。腰椎がバラバラになった彼よりも軽い脊髄損傷の人でも、病院内ではいまだ誰も歩いたことがないそうです。ですから半年で階段をのぼれるようになって退院したあの経緯は、何かを諦めている人々の助けになるかもしれないと感じました。

特に、思い込みにより、子供の頃より視野が狭くなってしまった大人や、「無理」だと言われて自分の夢をあきらめてしまいそうな子供たちに、希望を持って欲しいと考えたのです。

本質を見極めたうえで、努力もした結果の「諦め」ならよいと思うのですが、視野の狭さによる「諦め」はとても勿体無いと思いませんか。

それに今日死んだら後悔するかもしれません。

私たちの体験は、奇跡が起きたというものではなく本当は単なる結果なので、こう考えたからこうなったということが分かるように書いてあります。ですから闘病記ではなく「成功哲学」となっているのです。何事においても何かをクリアする時って同じなんですよね。この一冊に私の考え方が集約されているように感じています。

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日本の一般的な押し付けの教育には疑問をもつようになりました。当人が「気づき」を持てないとなかなか自分の考えは変わりません。

教育や仕事を複雑怪奇にすることで「経済」はまわり金銭は潤うのでしょうが、不要なものを徹底的に排除すれば、個人に余裕が生まれ時間や労力の活用ができるのではないかと思うことがあります。

本当に我が子の未来に今課している事が必要なのかを、特に子育て世代には熟考してみてほしいものです。大人に向けても子供に向けても教育を複雑にしすぎているように見えて、シンプルなやり方というものは勇気を伴い、一般的にはとても難しいことなのかもしれません。

もちろんどのような生命に対しても、本来は何もしないことが最高の敬意であると思いますが、それでも何かしたい、どこかに行きたい、お金をたくさん手に入れたいと願うなら、最終的には自分の心の赴くままに生きることがその人の正解なのでしょう。

だから自分の好き嫌いで個の存在を否定することはできませんし、地球が生かしてあるものは全て必要なのだろうと考えるしかないのですよね。

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

 

 

 

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