群衆のなかにあって孤高をたもつ

いつも人に流されないようにしていたように思う。

「誰かがいないと寂しくて・・・・」

なんていう気持ちは子どもの頃からよくわからない。

「親に認めてもらいたい、見てほしい」

などという気持ちもわからない。

どうして世の中の人が、自分のママの言うことを正しいと思いこむのかわからない。もしかしたら、自分の遺伝子の正当化なのかもしれない。

だけど、親は完璧な生き物ではない、祖先から少しずつ劣化して、先住民よりもずっとバカかもしれない。

そこに目と耳を塞いでしまうと自分も動物として劣化した生き物になる。

それを自覚したから、勉強しているのではないのか?

大人の言うことや「先生」と呼ばれる人たちの言うことにも、納得できることは殆どなかった。

だから問題が浮上すると、誰にも相談せず自分で考えた。

これが正しい!

あれが必要だ!

こうするべきだ!

と叫んでる人々を見ると、そんなわけはない、そもそも人間という動物ができたときに、そんなもの必要なかったはずだ、と。

きっとどんどん便利になって、頭を使わなくなって、何が必要で何が不必要かさえもわからなくなってしまったんだ。

そして、要らないものをたくさんもって、それがなくては生きていけないと、思い込んでいるんだ。

そう思った。

もちろん、自分の生活も含めて、である。

自然と共生するのは、決して安全というわけではなく様々なリスクが伴うだろう。ある程度の身を守るための道具を創るところまではわかる。

しかし、本当にこんなにモノが必要なのか?ホモ・サピエンスは頭が良いのではなかったのか?

金という紙切れをなくしたくないと必死につかんで、人を疑い、親子や仲間同士でさえ争うその姿を見ると、どうしても高等動物とは思えない。

そして、そんな国のそんな動物にうまれたことに嫌悪感を持ち続けている。

自然の循環とは人間が考える以上にきっと素晴らしいもので、例えるなら自分の体の中の物質は免疫機構や、受精卵がそれぞれの臓器や細胞をつくることに似ている。

誰かが払ってくれた税金のおかげで、義務教育をうけられたこと。

テレビや本があって、きちんと知識の種を得られたこと。

皮肉にもそれらのおかげで、そんな風に疑問をもてたこと。

怖かった。

どうして土をすべてアスファルトで塗り固めているのか。

便利ってなんだ?

本当にそんなもの必要か?

外見を一生懸命造るのはなんのためだ?

自分がおかしいのか?日本人がおかしいのか?

あまりにも人と話が合わなくて、合わせることに疲れ果てた。

やると言ったことを信じて何年も待っているが、次にあったらこうするよと言った経営者たちは誰も守らないし連絡も来ない。私とセックスすることが目的だったのかもしれない。嘘なら嘘だったと言ってきてほしい。でないとこちらはずっと待っている。それが大人のすることだ。

社会に出ても、いつも多数の人の綺麗事という嘘に合わさなければ、仕事すら進まなかった。そんなの仕事じゃない。

初めてFiji に滞在したとき、あなたは普通だと言われた。

アフリカに行っても同様だった。

カンボジアでもガイドに同じことを言われた。

誰かに執着しなくても、一期一会の流れのなかで生きていける。

もしかしたら、相手は人間ではなく、動物でも可能かもしれないと思う。彼らは地球上の仲間だ。

嘘がスタンダードの世界が嫌になって、世界に貢献する人は日本に住まないのだ。

人は幸せなところでしか生きない。

動物は自分のためにしか生きない。

子供たちも大人になったので、そろそろ自分のために生きたい。

美しき緑の星   1996 フランス映画

こんなこと考えてる人がいたのだ。

こんな場所に産まれていたなら幸せだったろうな。

とても嬉しくもありとても悲しくもある。

私はこのような世界がいずれ来ると思っている。

そうなれば、人間は、相当数自然淘汰されるだろう。

ちょうどよいバランスは自然治癒力。

命はすべて自己責任。

長生きすることが正解ではないし、事故に遭わないことが正解でもない。

母の卵と父の精子でできているから、なにがあってもそれも必然。

何もかも誰にも責任転嫁できない。

動物は産まれてから死ぬまで独りであるという方が真実なのだと思う。

国籍も戸籍も必要ない。

名前も誰かの創ったシステムもいらない。

ゴキブリや蚊同様、自由に好きなところで生きていきたい。

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

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