あとがきの意味

美しき緑の星に子孫を遺したいし、自分も生きたいですよね。

支配欲にまみれた生き物は美しくないので共存したくありません。

でも、それは多分私だけでなく、空が誰のものでもないし、海も誰のものでもない、人間以外は仕事なんてしなくても地球の恵みを享受していると知っている人ならば、同様のことを潜在的に感じているのではないでしょうか。

だから、利己的な生き物が嫌われるんですよね。

生き物としているのは、地球には人間だけではなく多種多様な生き物がいて、私たちは単なる生物の一種なので、ゴキブリと対等だという個人的な感情からくる呼び名です。

話は戻りますが、いつの時代も奴隷化された民は(呼び名を国民としても暴徒としてもそれは単なる名称)支配欲にまみれた生き物が想像したお話に違和感を覚え、いよいよ抵抗し始めます。

自然を守ろう

動物を守ろう

自由を取り戻そう

などという想いは、生き物として当然の感情で己の子孫をこの世に安全に遺していかなければいけない生物としての責務からくる本能的なものなのでしょう。

逆に自分さえ助かれば良いとか、楽をすれば良いという思考は、未来の子孫の姿が見えない五感と第六感をやられた生き物たちなのかもしれません。

しかし、生き物を殺戮する道具さえ作る支配欲にまみれた生き物たちはそれを使ってあっさりと奴隷を弾圧します。

過去と同じ方向に動いていては、多分また同様のことが繰り返されるのでしょう。それを何となく感じるから、なかなか賛同できないのかもしれません。

科学は生き物を殺戮し、支配欲を助長するものを生み出しますが、そうでないものを生み出す天才的な科学者も存在します。

頭のよさというのは、本来は金儲けのために使うものでなく、地球のために使うものだと私は思うのです。

生き物全部を救うことはこの環境では無理かもしれません。今日も絶滅した生き物がどこかにいるはずですしね。

栄華を極めたものは衰退する

と私は考えているので、一定数の淘汰は悲しいけれど仕方のないことなのだと思います。

日本で起こっていることは、広義では他国の内乱、戦争、象が顔ごとえぐられて牙をとられることや、海洋生物がプラスチックで殺されること、森が焼かれていくことなど、地球全土の問題と同じだと思うんですね。

それぞれの分野でそれを助けようとする人々の集団は必ずいて、命をかけて闘っておられるのだと思うのですが、いっこうに無くならないのはなぜなのかと考えてしまいます。

もしも、抵抗したり闘わなくてはなくならないという方向性が、支配欲にまみれた生き物に対してはまちがっているとするなら……

なんて逆転の発想を持ってしまうのです。

きっと、数では奴隷のほうが断然多いですよね。私もその一人でしょう。

量子力学の世界がもし本当だとするなら?私は詳しくはないけれど生き物のもつエネルギーに可能性を感じています。

周波数で世界は変わるかもしれないってね。

本気度。

これが大切ですね。

拙著「奇跡は準備ができた者にだけ訪れる」のあとがきに書いてあるのは実はそういうことなんです。

一人ではどうにも動かない大きなエネルギーを要する事象が目の前に立ちはだかるとき、同じことを願う人を集めるのです。

巻込む力ってやつですね。

そうするとそのイメージは100+100=200ではなく100×100=10000くらい大きくなってしまうんです、なぜか。

だから、腰椎がバラバラになった息子が半年で歩いてるんですよ。

あれを単なる闘病記だととる人がいます。

対象は下半身不随者ではありません。

美しき心を持った万人です。

読めない人がいます。

苦しい顔をし始めます。

私の価値観と真逆の人だと見てすぐにわかります。

どんな事象も同じです。

いま、あなたが何かとても辛いことがあるなら、抵抗するのではなく、勇気をもって良い未来を本気で望むこと、一人では無理なら仲間を集めること。

美しき緑の星を願う生き物には皆、幸福が訪れますように……

毎朝、祈っています。

そして、私はまだお会いしたこともない読者に助けてもらえるのでしょうね。

私にもあなたが必要なのだと思います。

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

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