受動と能動

生まれ育った土地や生家など、人々が愛してやまない故郷は、慣れ親しんだ土地への愛着や、その風景とともに在る思い出を指すのだろうと思います。

それはある意味では、有無をいわさずに受け容れなければならない受動的な愛であると言えるのかもしれません。

20年、30年とその土地に暮らすと、そこから離れることは、様々なものとも別れることになり「愛着」が強いゆえに、心に僅かばかりの戸惑いが生じます。

ですが、フィジーに住みたい、アフリカに住みたい、などと考えてしまう私は、多分その愛着を捨てることに対しての戸惑いと、出逢いへの期待による喜びのバランスをとることが得意なのかもしれません。

フィジーやアフリカとなると文化も大きく異なりますし、簡単に帰国することもできませんが、あっさり故郷を捨てるのかと問われても、地球なので好きなところに住まわせて!としか言いようがないのです。

その土地を好きだという気持ちは、生家に対してとは異なり能動的なのです。

たとえば結婚でいうと、親に決められた相手を好きになるのが生まれた土地に対する愛だとしましょう。

然しながら、ふと出会った土地を好きになり、幾度となく訪れて、結果的にそこで暮らしていくということは、能動的ともいえるのではないでしょうか。

そこには、一目惚れした相手に恋い焦がれ、何年もかけて両思いになるような大きな歓びがあるのです。

だからといって生まれ育った土地に帰れば、もちろん愛着はあります。街並みは変化してもその土地独特の空気感は残り、代々続く商店などもあり思い出は駆け巡ります。

ただし、結婚相手や職場に合わせて仕方なく暮らした土地には、このような感情は湧いてはきませんでした。

諦めないで想い続けていれば、こんな幸せなことが起こるのですね。

高校生の頃、遠足で初めて飛鳥を訪れ、レンタサイクルでこの村を走りました。あの時の爽快な空気を忘れられず、子供たちも連れて幾度となく訪れました。

2016年「奇跡は準備ができた者にだけ訪れる」の出版時、奈良の方で個人的に幾人も本を買って下さり、夫と車でお礼を伝えに周りました。その帰り際に、明日香村に立ち寄り石舞台で写真を撮ったのがこれです。

まさか、本当にここに住めるとは思いませんでした。

偶然かもしれませんが、娘もアルバムのトプ画は小学生の頃に明日香の棚田で撮影したものです。

彼女も生まれ育った家や土地を離れるのは決して嬉しくはなかったと思いますが、ここを気に入ってくれるのではないかと思っています。

もしも愛する土地と出会えたなら、娘にもぜひ能動的に移り住んで幸せになってもらいたいと願います。

娘と私は土地に対する感覚がとても近いので、フィジーも大好きなようです。いつかまた一緒に行くことになるのでしょうね。ですから今回の明日香村も、彼女にとっても能動的な移住なのかもしれませんね。

両思いになるような能動的な愛を軸として、受動的な愛の土地さえ地元に帰ればあるということは、とても豊かなことなのだと思います。

やはり富とは裸になっても持てるものだと実感しています。

この風景とともに生きていることが美しき富の一つです。

 

令和ゆかりの万葉の地でもあり、以前住んでいた処と同じく、また聖徳太子ゆかりの地でもあります。

なんだか不思議なつながりです。

此処に来ることを決めてくれた夫と娘には心から感謝しています。

 

これからの出逢いが楽しみです。

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

 

 

 

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