自分を静観する

素晴らしい意見であっても、尊敬したくなるような考えであっても、昨今は自由に発信されていて、知を授けていただくことに心から感謝です。

逆にいうと、誰もが発信できる昨今は、個人への批判なども自由にモノ言えるということにもなります。

そのような現代に、もしも少しストレスを感じてらっしゃる方も少なからずいらっしゃるでしょう。

私は、誰かの意見を正しいと言い切れる人などこの世に存在しないと思うんですよね。

喜んでいようが、苦しんでいようが、どんな生き方をしていようが、誰かがそれを強制することってものすごく傲慢ではないですか?

 

そこに存在するのは

 

正しい or 間違い

善い or 悪い

優れている or 劣っている

 

ではなくて

あなたの

好き or 嫌い

だけだと思うんです。

 

「俺はこういう考え方すきじゃないんだよね」

「私も同じく好きじゃないわ」

という会話なら、わからなくもないんですが、

「君、間違ってるよ」

「ほんと、あなたおかしいわよ」

という会話はなんだか、私には違和感があります。

数学の答え合わせなら「正答」は存在するかもしれませんし、社内規定や団体の規則においては、そこに所属している以上順守すべきことはありますが。

大抵のことは一部のニンゲンが狭い範囲内において考えた正誤や優劣なので、個人の生き方を基本的に、各々の価値観を尊重したいと考えています。

相談があると言われれば、自分の考えは話しますしその場合も

「私はこう思う」

が基本です。

「私にはこう見える」

も基本です。

 

 

究極はなにもしないこと

だと思うのですが、生きている以上人間やその他の生き物と関与せずにいられないので、それは不可能なのかもしれません。

人は自分が命の時間をかけてきたものに固執します。

会社に命をかけてきた人はその経験を

アートに命をかけた人もその経験を

勉強を続けてきた人は知識を

農を大切にしてきた人はその土や育てたものを

それぞれが自分が命の時間を費やしたものを優れているとか正しいだとか言いたくなるのは、それがもし間違いだったなら、自分の過去全部を否定することになってしまうからですね。

でも、それぞれ命をかけてきたものは異なります。

正しいとか優れていると言いたい自分の想いは一旦わきに置いて。

他者の大事にしているものを静かに受けとめることが人間関係を円満にすることの第一歩ではないかと思うのです。

それがどうしても自分の好きでないものでなければ、そこから離れているだけでよいのだと思います。地球はどちらも生かしてあるのですから,

高度な知能をもった動物だからこそ熟考して平和的な解決法を考えられると思うのです。

自分が徹底的に納得のいく生き方をしているなら、多分他者の生き方に一喜一憂することはないでしょう。

まずは自分がどう生きたいのか、どう生きているのか。他者を批判したくなる前に、静観すべきことは、それに尽きるのかもしれません。

 

今日もみなさんありがとう。

 

 

 

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