この世界の見え方

一般的には、目に見えるものやデータなど、

エビデンスにこだわる人。

数字にこだわる人。

知識にこだわる人。

このようなことを積み上げてきた人たちは自己肯定感も高く、迷いは少ないのかもしれません。

当然といえば当然で、その点には敬意を表します。

しかし

あなたの赤と私の赤

にも書いたように、網膜から脳に伝わる電気信号が本当に他者と同じだというのは、少しおかしな気がしてやはり正しいことなど何もないと思ってしまいます。

 

生物の一種である人間が考えたことが正しいわけはなく、もちろん、真理に到達しつつある人は存在するとは思いますが、死んでからしか確認できないこともあるので、生きている人に「すべてわかる」ことはないだろうと考えています。

 

人は自分より思考回路の多い人の意見やロジックに納得し、それを正しいと定義したくなります。だから、高学歴や権威ある立場の人がたとえ嘘をついていたとしても「真実」だと思いこんでしまう人が多いのでしょうか。

教育においていつもその疑問が払拭できずにいます。

エビデンスのようなものを提示してくることに対して「なるほど、そうなのか」と感心はできても、それが現時点、人間のおもいつく最善に近い思考であって、必ずしも正解とはいえないんですよね。

 

たとえば「歴史」についてですが、誰かが数百年単位、数千年単位で考えたシナリオかもしれません。それを覆すだけの知能を持つ人がこの世に現れなければ、そのシナリオが正解として流布することになるでしょう。

 

相手を納得させる力というのは偏に頭の良さなのだと思われますが、ニンゲンにはわかりようがないこともあるということを忘れてしまうと、人間関係構築においてトラブルを起こしがちになります。

 

数ある生命体の中で人間だけが優れているはずはないですし、肉食動物になったこともないのに肉食動物のことが本当にわかるわけないし、植物になったことがないのに植物のことがわかることはないのでしょう。

 

あくまでニンゲンが考えられる範囲内での仮説、もしくは分析で、ある意味ファンタジーです。

 

世界についても全員が同じ感覚を持っているわけではなく、自分の着目したことしか見えていないし聞こえていないのが現状です。

 

また脳が電気信号で感知しているのが「自分だけに視えている世界」だと信じるなら、それぞれ世界が違って見えていても不思議はありません。

 

そうすると知識などあてにはならなくて、この世は本当は無であったり、無限大であったり、何もない可能性だってあると思うのです。

 

人間が創り上げたものはすべてファンタジーのようなもので、他者に「○○はこうすべきだ」とか「○○はこうなんだよ」とか、果ては自分が正しいと思い込んでしまうことは無謀です。

 

科学を否定したいわけではないし、ニンゲンのすべてを否定したいわけでもありませんが、わからないことはわからなくていいのではないかと、昨今の遺伝子操作などや動物虐待などを見ていて感じます。

 

本来は何もかも無なのではないかとか、自分が時間をかけて築いてきたものを肯定したいのが人間なので、そのための意味づけばかりやっているのではないか……とか。

 

だから人生のファンタジーを創作するのは非常に面白いのです。

何にも左右されず

心地よく

平和的に

面白く・・・・

 

今日も皆さんありがとう

万物にありがとう。

 

※写真はhttps://images.nasa.gov/より

 

 

 

 

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