随筆 129

昨日はクロスバイクで30キロ弱は走ったように思う。

交差点でいちいち信号停止しなくてはならない都会なら、この距離はしんどくて走れない。

帰宅して映画を観て、就寝は日付が変わる前。

暑くてシェリーの野草も傷みが進み始めるので、冷蔵庫に保管。

娘が4時半に家を出るので、その前に起きて朝ごはん弁当を作った。

昨日は午前中に汗を流しながら畑仕事もやったので、一日中アスリートのような動きで、流石に睡眠時間4時間は少々眠い。

1時間ほどの二度寝。

とはいってもシェリーは朝が早いので(私と生活して早くなった)軽い掃除と、グルーミングごっこ(笑)

同じく昨日畑手伝って、自転車で走った同居人は、起こしても起こしても起きず、ギリギリまで寝ていた。

よって今日の川からの水くみはまた私の仕事となる。

まあ、仕方ない。体力の問題だ。

雇用されている人には仕事は金儲けだけだと思うだろうが、案外家での仕事は多い。

飲食店よりも家で食べるものがおいしくなければ、生涯まずいものを喰って生きることになる。

まっぴらごめんである。

だから『うまい飯』をつくる。

家族もしくは自分のそれを義務的な作業にする人は、多分人生の大半を左右する暮らしを重視していない。

動物とは真逆だ。

外での活動との妥協点ははかる必要はあるが、実際mustなことなど何もない。

すべて自分で選択している。

ゆえに『こうしなければならないから無理だ』という想いは嘘で、自分がそうしたいからやっているだけだと自覚しておかないと、生き方の辻褄が合わなくなる。

本当に大切なことに尽力したいなら、ヒトはそれを可能にするために知恵をしぼるものだ。

自分でできることは自分でやる。それが生物の基本。

相互に扶助できる自分の得意な才能を提示し、共生相手を決める。

もしも独りでやらなくてはならないことを、一部誰かが肩代わりしてくれるならそんな有難いことはない。

でも依存とは似て非なるモノ。依存すると脳も身体も劣化する。

互いにMAX生きることが質の良い人生を創造すると私は考えている。

 

なので怠惰なニンゲンは迷惑。

私の人生の質を下げるから。

依存はある意味誰かをいつも利用していることだ。

愛ではなく利用。

愛は与えるもので、奪うものではない。

 

家族がお気に入りの飲食店があった。

古びた店だが、店主の愛が伝わるとてもおいしい料理だった。

ところが急にまずくなった。

何を食べてもまずい。

訊けば、例の協力金でそこにも飲食バブルが起こっていたのだ。

依存は愛を奪う。残念だ。

少ない儲けで懸命に旨い料理を提供していた人でも、意識の変化がここまで味に出るのか。

となると協力金をもらわずに闘っている店の料理はかなりうまいかもしれないと思った。

食べる側の味蕾が化学物質などでバグっていなければの話だけれど。

 

あなたが誰の創ったお話を採用するかによって、これが悪意にも善意にも聞こえるだろうけど。

私は自分のシックスセンスを採用している。

 

 

 

 

 

 

 

 

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