Archive: 月: 2025年8月
随筆 200
随筆 199
今日は同居人一人で営業の為、おにぎり弁当。
うちの高菜で作った高菜漬けと干しエビの混ぜご飯握り。
もう一つは今年の梅干しとうちの大葉のキムチ。
そして数日熟成させた塩豚を竹の皮に包みました。
同居人、竹の皮の使い方知らなくて、「これを弁当箱に入れるんやろ?」
んなわけないやん(笑)
昔、一度目の離婚で別れた息子たちの運動会の日だけ私が弁当を作っていて、当時は離婚組も少なかったので「母親がいないと友達に話せていない」とおばあちゃんから聞いていたこともあり、口数が多くない息子たちが周囲にちゃんと「母親がいる」とわかってもらえるように、一目見てびっくりするようなお弁当を作るように努力してました。
竹の皮でおにぎりを包んだり、パンダの顔のおにぎりを自然素材の箱に入れたりして、思惑通り「うわっ、その弁当どうしたん?」
と友達が見に来て話題になったとか。
まだわっぱ弁当も流行ってなかったので、アルミかプラスチックの弁当の頃。アニメチックなキャラ弁の時代でもありませんでしたから。
いまや珍しくもなんともないレトロ弁当ですが、土鍋でご飯を炊く前に玄米なら長い時間水につける必要があり、漬物は種まきから相当な時間をかけて作ったものでもあり、梅干しも何もかもそうして女性が作ってきた過去は、主婦を馬鹿にするなどとんでもなく、途上国にみられるように一家に女が一人では、畑、手洗いの洗濯、動物の世話、薪での料理、保存食づくりまで今の日本人なら死んでしまうような仕事量です。
私たちの世代もそうかもしれませんが、日本人は「自由」をはき違えて久しいです。
青二才の両親の意見が正しいと思う狭い価値観で育つ子供たちと、ひいじいちゃんやばあちゃんまでいる大家族で育つ子供たちの知恵や価値観は、多分大きく違います。
それが良くても悪くても、子供たちは学ぶことがあり、正解と不正解を教科書以外で考える基盤になります。
生命に近しい環境で育てば、虫の命や木の壮大さまで感じながら大人になり、蛇口をひねれば出てくる消毒済みの水に違和感を覚えることでしょう。
嫁姑問題をテーマにするオーラの良くないドラマが子供の頃から大嫌いで、面白くもなんともないので、実際に、2号の母親=元姑が今の私の家に遊びに来たりあちらの家に行ったりできるような関係性を保っています。
1号の両親も健在ですが、施設に入っており、大阪にいる頃お見舞いに行ったのが最後ですが、いまだお父さんお母さんと呼んでいます。離婚したって他人にはなれません。広義では家族。結婚していても憎しみを送ってくるような人間は別種と定義しています。
大家族で生きることに「面倒さ」を感じる人は多いと思いますが、面倒な部分は相互扶助の部分とも一致していて、奴隷として働く時間にそのエネルギーを使うなら、真の相互扶助の面倒さに使った方が自由度は高くなります。
仕事は家族全体で作れば時間も営業も自発的に決められ、家事の分担で自由時間は増え、子供たちを看る目が増えてリスク管理も強くなります。
そういう人生の余暇を「自由」と呼ぶのであって、親に干渉されない人生を自由と呼ぶのではありません。
「あなたは自由な人だ」と若い頃からずっと言われています。自分ではなく家族のために費やした時間は多く、なぜそう見えるのかわかりませんが、もしかしたら隷属的なものにエネルギーを割かないからかもしれません。
家族プラス1~3号という他人全員と価値観が合うわけではありませんが、「役割分担に徹しろ」という以外の気持ちはなく、それさえすれば個々にも何かしら任せられることはあるので、その仕事さえきっちりやるなら極論誰とでも生きて逝けるのだと思います。
迷惑なのは依存と搾取民。これだけは自分の世界に必要ありません。
脚にぶら下がってきたら自分の脚事切って深海に沈めます(笑)
イメージは平家。
何をするかより誰とするか。
もしも自分の家族に愛がなく、共に生きられないのなら誰と共生するかしっかり考えておいた方が良いでしょうね。
ワンルームに独りでいることは自由とは程遠いです。
自由も幸福も永遠に続くものではなく、小さなことのつなぎ合わせ。
飛び飛びでよいのだと思います。
随筆 198
今日は5時から Continue reading “随筆 198”