随筆 205

ニンゲンが逝くと葬式だの、お墓だの、それとわかる儀式をするので、その人が決して美しい善人でなくても、周囲もその傷みに形だけでも寄り添う事が出来る。

でも、もしその人が人間より、もしくは家族と同等に小さな生命を愛していたとして、憔悴しきっている時に、

「ああ、そうなの」

と流されたり、

「今忙しいから」

とか

「遊びの予定があるから」

と言われたら、二度とその人をその小さな生命より愛することはできないだろう。

 

君には異種の価値もないゴキブリ同等でも、その人には君よりも価値のある美しい魂とのお別れなのだ。

ある種好きではない相手にしろ、共にその別れに涙できる人間なら、今しばらくは共生できる気がしないでもない。

逆に、人間として好きだった相手でも、そこに人間優位論的な思考を持ってこられると、たちまち嫌悪に変わり顔も見たくなくなる。

根底に持つ価値観は真の同種異種の判断になる。

 

どんなに小さくても短命でも、確かに同じ時を一緒に生きていた魂たちは家族である。

 

ニンゲンというやつは異種を排除したがる本能があるようで、古代から知られるように闘うことが大好きな生き物だ。

いくら素晴らしく進化したと宣っても、未だに誰も平和的な解決法を構築できないでいる。

本能で殺し合いをする生物なのであれば、平和的な解決には、本能を駆逐するような強固な意思が必要だ。

先を見通し、それをやっても結果無駄に終わるか、現状より悪化するという先見の明をもったアルジャーノンのような天才的な知能の持ち主が、平和的解決の道を拓くのかもしれない。

だけど、怠惰が過ぎた現代のサピエンスに、果たしてそんなことは可能だろうか。

世界に点在するその強固な意思の平和主義者もまた、諦めと希望の狭間で最善と思われるシステムの構築に関与する。

全部真実ではないにしろ、ざっくりと歴史を学んできた人間たちなら、そろそろいままでとは違った方法を考えることもできるのではないか。

未だに戦いをやめないのはサピエンスなのだから。

 

自分がどうにかしようという傲慢な一個体の思考は棄て、地球にお任せしジャッジしないということも良いのではないか。

どこかで闘い淘汰が起こり、どこかでは絶滅に瀕し、美しき緑の星のような平和的な相互扶助コミュニティを作るものも出てきそう。

 

究極の愛は何もしない事

 

問題を「解決する」のではなく何もしない事。

一度、そうやって世界が動いてみたら、おもしろいことが起こりそう。

ああ、こうなるのね。

へえ、ここが淘汰されるんだ。

なんと、こういう類が浮上してくるのね。

みたいな……(笑)

 

コントロールしたい人は何かが強烈に怖いのか?

怠惰でいられなくなること?

それとも自分の価値?

 

どうでもいいじゃない。

自分以外の生き物がどう生きようと。

自分は自分の脳で考えて、失敗しても短命でもやってみりゃいい。

 

馬鹿らしい世界にさようなら

 

万物に懺悔

地球に愛を

 

 

 

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