夏の夜は、暑くてなかなか寝付けませんが、ここは自然のおかげで朝と夜には温度が下がり、窓から入る風で過ごすことができます。 Continue reading “食を大切に 3”
Archive: 月別: 2020年6月
食を大切に 2
高価な食材を買い揃えて丁寧に調理して、テーブルに並べていただきますと唱えるのも一つの感謝の在り方です。 Continue reading “食を大切に 2”
随筆 109
食を大切に 1
食べることにさほど欲のなかった私が、世界を憂い、子孫繁栄を考える中で最短ルートとして力をいれたのが食事でした。 Continue reading “食を大切に 1”
随筆 108
群れと循環
愛情のある人と付き合っていれば、余ったものを誰かに与え、その人もまた別のモノを返礼として与え、それに対してまた与え・・・・・という循環が自然に起こり、途切れない。
意味づけ
随筆 107
世の中には誰かを支配したがる人がいる。
お金を搾取したり、命を奪ったり、何もかもコントロールしてマリオネットのように動く人を見て喜んでいたりして、その脳はどんな造りになっているのかと不思議に思うことがある。
大勢のニンゲンをまるで自分が牛耳っているかのような気分になることで、いったいその人は何が嬉しいのだろう。
何を満たそうとしているのだろう。
どうしてそういう生き物に憧れる人がいるのだろう。
余程自分を肯定することができないか、孤独に対する恐怖がとても強いのか、または汗水たらして自分の喰うものを作ったり採ったりすることができない生命力の弱い生き物なのか、生物は皆死ぬのだということが怖くて怖くて認められないかのどれか、または全部かもしれないといつも感じている。
動物は自分のためにしか生きない。
この世に生まれてくるということは生きられる環境にあるからで、地球は生きられない数の生物を生み出すほどバカではないと思う。
生きることのできない一定数は死んで逝くが、それは私たちの感情を度外視すれば、単なる自然淘汰で、多すぎたら減るのは仕方ない。
誰かが何かをしなくても、各々がきちんと自己完結できる生き方をしていれば、他者に依存する必要もなく巻き上げる理由もない。
また小さな群れである家族においては、人間は雌雄一体でないからこそ、とりあえず雌雄で組んだ方が生物的にはうまくいくのだろうし、異性と共生するほうが役割分担はスムーズだろう。
「死ぬまで愛してる!」
なんていう、嘘八百は要らない。役割分担できる賢い生き物が相手としては最善だ。
昨今の人々の怒りと抑鬱と悲しみの中で思うのは、賢明な人々がすぐに気づいてしまう虚構を恥ずかしげもなく世界に触れ回る摩訶不思議な価値観。
生きるために狩猟採集することではなく、机上で描く脚本。そんなエネルギーがあるなら、キャベツ一つでも栽培してみればチャペックが言うように「鉢の中に宇宙がある」と気づくかもしれない。
もしかすると、人任せで怠慢になりすぎて、想像力が失われていっているのかもしれない。常に奴隷が働いてくれると思い混んでいるかのようだ。
途上国は先進国に倣わないほうがよく、憧れる必要もない。と私は現地でよく言った。
家族の絆が強く、土地があって細々と作物を作り、お金という紙切れは持っていないかもしれないけれど、生きるためにはまず困らない。
お金を「得なければならない」と洗脳した誰かの創ったお話、つまりシステムという思い込みのファンタジーの怖さを視る。
他者の嗜好品などを大々的に栽培しなければ、本来自給自足できる能力を持つ途上国の彼らは、家族や隣人とも助け合うことができ、生きる力は強い。
私たちは少しばかり着るものが綺麗だとか、便利な家電を多く持っているとかでしかなく、経済が破綻したら生き残れるのはビルの中にいる人々ではなく彼らだ。
植民地にせず放置しておけば今も自然淘汰にまかされ生きている彼らを、教育が必要だの、お金がないと生きていけないだのと洗脳し、土地や作物を搾取し、経済システムで支配してがんじがらめにしたのは私たちの作った世界なのだろう。
私たちは傍観者となり荷担者となってきた。
都会に生まれ都会に育ち、子供の頃からコンビニもあるような夜道の明るい世界で生きてきたけれど、ビルの中でパソコンを触って、食べ物に交換するための紙幣を得るならば、ダイレクトに食べるものを得る方が早いし、無駄な命の時間を使わなくてよいと思う。
母は農地や家屋を捨てて父と都会に来たので、もはや我が家には農地はなく、思い切って引っ越すことで、やっと借地ながら小さな畑で自給自足に向けた取り組みを始めることができた。
売るためでない農業なら大規模にやる必要もない。
カフェなどなくても時間も余裕があり、満足できる食事を家族に提供できるし、幼少期から「無人島で独り生き抜けるように」とひたすら自分で考えて作ってきた生活も大いに役立っている。
先住民に比べればまだまだではあるが(笑)
息子の下半身不随を超えたとき、少し自信がついた。
あれは現代のニンゲンには不可能だとしか思えないし「勉強」の上ではそうでしかないから。ある意味あれは無人島で生き抜く力をつけるための、医学や学問全般に対する挑戦でもあった。
私はずっと先住民に憧れていた。
余計なものをもたず地球と共存し、適度に生き適度に死んで逝く。
「はじめにんげんギャートルズ」というアニメを観たときに、どうしてこんなに複雑怪奇な世界にして他生物まで苦しめているのかと、現代のニンゲンの奪い合いが醜く見えた。
かつて奴隷として無理矢理連れてこられた黒人や、虐殺された先住民たちはきっと生命力が強いのだろう。
だからこそ、生命力では劣性である生き物たちが彼らを恐れ、殺戮するために武器や兵器を作り、彼らの土地や生活を奪い、抑えつけるためのシステムというお話を必死に考えるのだろう。
丸腰で彼らと対峙しようとすれば、共生できるのは彼らと同様に頭の良い平和的に解決できる智慧のある生き物だけだろうから。
それで万物がちょうどよいバランスで生き死に、最小限の苦痛の上で平和に生きているならよいのだけれど。
誰かの創ったお話に右往左往し、食べる量さえ自分で分からなくなり、閉じ込められる牛豚や、実験される動物たちに何も感じることもなく、いつも自分より弱いものを捜し罵倒することでしか、自分の存在価値を感じられないとしたなら…
残念ながら私たちは、動物の中で最下層の生物であるということに間違いなさそうだ。搾取独占しておきながら不幸だなんてよくわからない。
もしかすると大多数の人々が奉り崇める人が劣性で、システムから外れ自己完結出来ているホームレスが優性の生物であるという可能性は大いにある。
いくら物を買っても土地を独占しても山ほど食い物を喰らっても満足できない人もいて、さらにさらにと高みを目指しているとしたなら…
それは高みではなく奈落の底ではないのだろうか。
ニンゲンは潜在的には嘘はつけない。幸福な人は瞳がキラキラしている。
個々が自己完結出来て、最低限子どもを守ることや相互に助け合うことが出来て、欲を出さずに適度に分け合えば、適当な数でニンゲンは存続できるだろう。
だけど、ニンゲンたちもいずれこの世から消えてなくなるために、緩やかに退化し、殺し合い、奪い合い、地球に淘汰される運命なのかもしれない。
時に信じていることを逆転させてみればいい。思考回路が増え、いま辛く悲しい世界から転じて光の世界に行くことが出来るかもしれない。
今日も皆さんありがとう。