群れと循環

愛情のある人と付き合っていれば、余ったものを誰かに与え、その人もまた別のモノを返礼として与え、それに対してまた与え・・・・・という循環が自然に起こり、途切れない。

もしもここに一人、搾取や独占をする利己的なニンゲンが入ると、循環はたちまち崩れる。

分け与えることが出来る、愛のある人とだけ交際していれば、お金はさほど必要ない。群れの発端はそんなことだったのかもしれないと古代の人々の群れを想像してみる。

物々交換の基本的ルールは「愛情」なのだ。

タンザニアの村に滞在したとき、まだそのような繋がりが残っていた。裕福な家庭が給食費を払えない家庭の分を余分に払う。親のない子に農家が食べ物を分け与える。

フィジーでも、部落でお金のない人に食べ物を与える習慣が残っているときいた。コロナ禍で物々交換が復活したというニュースが流れていて、フィジーを愛してやまない私は、流石だなと嬉しく思った。

 

考える知能を持った群れで生きるニンゲンなら当たり前のことではないかとも思うが、それが通じない依存者は搾取するだけになり、与える方がもたなくなる。もし法律などのシステムのない動物だったなら、孤立して死ぬしかないだろう。

システムを構築した古の誰かも、もとを正せば愛の循環を平等に起こすためだったのかもしれない。

「循環」させるということを知らないと、怠惰な単なる搾取民となり、与える人々は子孫の命さえ脅かすことになり、疲弊する。

その結果、個人主義になったのかもしれない。

コミュニティへの所属や助け合いを「面倒だ」と捉える人もいるが、それは単に「コミュニケーション能力」が低いだけなのかもしれない。

価値観は人それぞれ異なるし、優劣を決めたり正誤を決めつけられるような素晴らしいニンゲンはこの世には存在しない。

自己過大評価をせずに傾聴し、異論があるなら「自分はこう思う」とただ伝えるだけで誰かと仲たがいする必要はない。

争うニンゲンはいつも自分を正しく優れていると思い込んでいるし、見下す誰かを探している。地球が生かしてあるものに、個人はジャッジできない。笑われるのは自分の方だ。在るのは個人的な好き嫌いだけなのだ。

愛で繋がる群れの中に搾取や依存する人が混じると、循環を止めることになり、集団の生活を脅かす。そういう人を「迷惑」と呼ぶのだと思う。

 

類は友を呼ぶ

同類と生きることが出来れば皆、平和だろう。

 

まだ移り住んで半年。でも此処にはそのような人が幾人もいる。価値観も年齢も生きてきた環境も異なるけれど、愛の循環が途切れない。

助けたらまた自分に出来ることをする。私が彼らの子供のような年齢でも関係ない。自分に出来ることをするだけだ。

風景は美しい。だからこそ1500年も前からこの土地を守ってきた人々に感謝の気持ちを忘れないようにしたい。

 

移住者のおばあちゃんが行方不明になった。村の放送が入った。大勢の人が探し始めて、無事見つかった。

放送からあっという間だった。

愛の循環が垣間見えるこの土地に移住するなら、やはり愛を持って返礼できる人でないと、孤立するような気がする。

ここは住居費も大阪都心部と変わらない。その価値は住んだらわかる。

コロナ禍で田舎移住が「流行って」いるらしいが、50年後、100年後、村出身の人が少なくなっていったとしても、日本の礎を守る覚悟ある人達が、この風景を継承していてくれればと切に願う。

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

 

 

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