随筆 191

6時すぎまでに庭掃除と洗濯は終えて、爽やかな朝を迎えています。
今日の空は自然。
夏らしい色です。

今日の朝ごはんは、

珈琲
タイのあら汁
自家製ヨーグルト
うちの苺のジャム
雑穀ナッツスパイスパン
ゆで卵
モロヘイヤの胡麻和え
ボイルドキャベツ
人参と玉ねぎのドレッシング
ルビーグレープフルーツ
甜瓜
バナナ

昨日は8時間も勉強をしてたので身体がガチガチ。途中畑仕事などをしてリセットしたものの汗だく。今日も続きがあるのでまとめなくてはいけません。

とある研究結果で、心身の自然治癒には、太陽光、山の樹の葉が風にそよぐ音、鳥のさえずり、虫の鳴き声、かわのせせらぎなどの「音」が必要らしいとのこと。うちには全部あります(笑)
AMISHやマサイなどに言えば当たり前すぎて「なんだそれ?」って言われそうですが、何かが退化した民族には、科学的な仮説(論文)に基づいて説明しないと信用できない人も多く、人を助けたくても感情論だけでは伝わらない世界になりつつあります。

仕事でもそうですね。主旨や目的を話しても、ではどうやって何人の人生が変わるのか数値化してほしいなどという、他国ではあり得ない思考を持ってこられると、まるで人間が機械化されてロボットのごとく、同じ行為で誰にでも同じ結果が得られるという実験動物的な思想に感じられます。
生まれ持っての個体差や生きてきた背景を考えられない大人が「社会」を作っていたり、家庭教育も「同じ」を求めてきたことが想像され、近い将来訪れるだろう流れも各々が望んだ結果引き寄せる思考の現実化なのだろうと感じたりするわけです。

綺麗な事を話してもその人の日々の行動が真実であり、家の中で一人でやっているその姿が本性です。言葉を信用しても意味がなく、行動とお金を何に使っているかを見れば、人間性は大抵わかります。
信用すべきは行動と口が一致している人。

出来ないこと出来ることは人それぞれ。それを自覚し、懸命に自分に出来ることをやり続ける人が信頼され相互扶助できる相手。

依存する人は、文字通りお荷物で、力のある人は重い錘が足にぶら下がっても何とか立ち泳ぎで海から顔を出せますが、力のない人に誰かがぶら下がると、共に沈んで溺れて死にます。

大人は自分で立つのが基本。完璧でないなら誰かと支えあえます。でもぶら下がるのではなく、バディのように息ができない海の底で酸素を交代で吸いあう対等な仲間としてということです。

「相互扶助」という綺麗事も、真意が「搾取や依存」ではないか否かの判断は、その人が自分で立っているかどうかで見極めることができるでしょう。印字の桁の話ではありません。

今日システムが完全に崩壊したら生きるべきは生き、死ぬべきは死ぬでしょう。自分で創らず他者に依存してきた大人が権利を主張しても無意味で、生物の中で人間のみに限ったファンタジーが失われれば、すべての人が平等になるのかもしれません。

他生物が人間に虐待されている場から自由になり、人間の創るゴミがstopするのなら、それもよし。
助け合う人々は各地でかってにコミュニティ(群れ)化するでしょう。

今のうちに大地と共存するアフリカの先住民などに生き方を学んでおきたいものです。

Pocket

0 comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です