今日の朝ごはん
ルカ二村のキリマンジャロの自家焙煎珈琲
自家製サワードゥのライ麦パン
烏骨鶏卵
うちのトマト
うちのオクラ
レタス
秋映
近所の人の柿
うちの無花果
蜜柑
マスカット
パイン
自家製ヨーグルト
無花果ジャム
今月は知人家族併せて誕生日ラッシュなんだけど、個人的にはそういう日ってプレゼントを「もらう日」ではなく祖先に想いを馳せる日で、自分が地球に産まれて何をしてきたのか、先祖の負の連鎖を止められているか、地球の癌と化していないかなどを深く精査する日でもある。(普段からやってるんだけども)
なので、自分の誕生日などは何かを欲しいと思ったことは振り返っても皆無で、小学生時代なども一切の期待をしたことがなく、彼氏に何をもらったなどという自慢をする人々を冷めた目で見続けている。
強いて言うなら幼稚園児の我が子などが、絵を描いてくれたり、手紙をくれたりしたことは素直に喜んだような気もするが、それよりもニンゲンおよび自分の先祖の負の連鎖を止めてくれることがもっとも歓喜する私へのプレゼントかもしれない。
なぜこんな醜い生き物に産まれてしまったのだろうと思う一方で、一緒に生きた動物たちに恥じないように、自己完結してあの世に逝くようこれ以上ゴミを増やさず、綺麗にしていかなくてはいけないとも考えている。
分解されない人工物をいかに買わないか、電気ガス水道をいつすべてやめるのか。(電気を使うから問題が起きるわけで、ソーラーが野生動物の邪魔になっているのは幼稚園児でもわかるわけで)
誰にも執着が無いので、すでにスマホも持たない自分は誰かとつながっていたいという欲求はない。
書くことは迷っている人の背中を押すためかもしれないし(つまり同類探しのため)癌細胞を治癒できるかもしれないと僅かな希望を持っているからかもしれないし(地球万物への人間の悪行)諦めの暇つぶしかもしれない。
若しくはこのような生き物に産まれた正当化のなれの果てなのかもしれない。
結婚などして子を産んでしまったがゆえに責任感で血族に合わせてきたことがたくさんあるけど、もはやいまは見せかけの自由でなく、真の自由に向けてどう生きるかばかり考えていて、それが群れで可能なら少数の群れで、不可能なら単独でかまわない。万物と融合したい想いが強力で、周囲への迎合がキツイ。
だけど、いくらシステムの書類上のことといえど、愛する男とわざわざ別れるような女はいなくて、結果的に私は誰も好きでなかったのだと思う。
もし相手がコニーサンなら死ぬまで一緒に居たいと思い続けただろうし、生まれ変わってもまた会いたいと思っているから気付くこと(笑)
手がなくなっても脚を失っても水晶体がガラスに変わっても、豚の人工弁にかえても変わらない「自分」
もしも心臓移植で人格が変わり誰から見ても別の人になったなら、自分は心筋細胞かもしれない。
かつて脳の半分を失った男の子がいて、残り半分の脳がその機能を果たしたという奇跡の話を訊いたことがある、それが本当なら脳も手足のようなもので、自分でない可能性もある。
もしも心臓が自分ならピティのようにそれが止まれば「無」かもしれず、無なら無で何も考えないのでOKだし、電気信号の意識の塊が遺るなら遺るで自分はいるのだからOKだし、どちらにしても怖がることでもないと思う。
子どもの頃、叩かれて息絶えるゴキブリと自分の死の違いを感じなくて、だから11歳の時に医師に宣告された余命も(母から聞いたのだけど)「ふうん」って感じだった。
予定よりかなり長く生きた。
残りの時間がまだあるなら美しい世界だけを見て逝きたい。
美しい人
美しい万物
美しき緑の星
天国だね
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