随筆 107

世の中には恋人や子供など、誰かを支配したがる人がいる。

まるで自分が牛耳っているかのような気分になることで、いったいその人は何が嬉しいのだろう。

何を満たそうとしているのだろう。

余程自分を肯定することができないか、孤独に対する恐怖がとても強いのか、または汗水たらして自分の喰うものを作ったり採ったりすることができない怠惰な生き物なのか、生物は皆死ぬのだということが怖くて認められないかのどれか、または全部かもしれないといつも感じている。

動物は自分のためにしか生きない。

この世に生まれてくるということは生きられる環境にあるからで、地球は生きられない数の生物を生み出すほどバカではないと思う。

生きることのできない一定数は死んで逝くが、それは私たちの感情を度外視すれば地球のなせる自然淘汰で仕方がない。

各々がきちんと自己完結できる生き方をしていれば、他者に依存する必要がなくなる。

人間は雌雄一体でないからこそ、とりあえず雌雄で組んだ方が生物的にはうまくいくのだろうし、異性と共生するほうが役割分担はスムーズなので、家族を持つのかもしれない。

「死ぬまで愛してる!」

なんていう嘘八百は要らない(笑)役割分担できる賢い生き物が相手としては最善だ。

家族の絆が強く、土地があって細々と作物を作り、電気ガス水道のない村の人たちは生きるためにはまず困らないように見えた。

本来自給自足できる能力を持つ途上国の彼らは、家族や隣人とも助け合うことができていて生きる力は強い。

私たちは少しばかり着るものが綺麗だとか、便利な家電を多く持っているとかでしかなく、経済が破綻したら生き残れるのはビルの中にいる人々ではなく彼らだと思う。

土地や作物を搾取し、経済システムでがんじがらめにしたのは私たちの作った世界なのだろう。

私たちは傍観者となり荷担者となってきた。

都会に生まれ都会に育ち、子供の頃からコンビニもあるような夜道の明るい世界で生きてきたけれど、ビルの中でパソコンを触って食べ物に交換するための紙幣を得るならば、ダイレクトに食べるものを得る方が早いし無駄な命の時間を使わなくてよいと思う。

売るためでない農業なら大規模にやる必要もない。

 

私はずっと先住民に憧れていた。

余計なものをもたず地球と共存し、適度に生き適度に死んで逝く。

「はじめにんげんギャートルズ」というアニメを観たときに、どうしてこんなに複雑怪奇な世界にして他生物まで苦しめているのかと思った。

食べる量さえ自分で分からなくなり、閉じ込められる牛豚や実験される動物たちに何も感じることもなく、いつも自分より弱いものを捜し罵倒することでしか、自分の存在価値を感じられないとしたなら…

残念ながら私たちは、動物の中で最下層の生物かもしれない。

いくら物を買っても土地を独占しても山ほど食物を喰らっても満足できない人もいて、さらにさらにと高みを目指しているとしたなら…

それは高みではなく奈落の底ではないのだろうか。

ニンゲンは潜在的には嘘はつけない。

幸福な人は瞳がキラキラしている。

個々が自己完結出来て、最低限子どもを守ることや相互に助け合うことが出来て、欲を出さずに適度に分け合えば適当な数でニンゲンは存続できるだろう。

だけど、ニンゲンたちもいずれ宇宙から消えてなくなるために、緩やかに退化し、殺し合い、奪い合い、地球に淘汰される運命なのかもしれない。

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

 

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