世界各地で差別に対する抗議活動が起こっているが、とてもすばらしい。
すべては脳の電気信号だとしたら、おおぜいの意識が同様の世界をイメージし、それによって世界は現実に物質化するかもしれない。そうなれば本当に嬉しい。
しかし気をつけなければならないのは、黒人や先住民に対する差別だけでなく、それ以前の問題を考えることだ。
なんの差別ももたずに生まれてきた我が子に
「あの子と遊んではいけません」
と友達さえ『自分の価値』だけで選択し、無限にあった我が子の可能性を限りなく狭めていく親の思考である。
私は子供の頃、友達が親にそう言われている姿を何度となくみてきた。
人間性云々ではなく、多分学業成績だけで判断している。我が子を他の子と遊ばせないように見張っていてほしいと、私に頼む親もいた。
小学生の頃の私は、親とも先生とも会話が無く、価値観など誰にも話さずにいたので、私が何を思ってその顔を見つめていたか相手は知らない。アメリカの黒人奴隷、クンタキンテの実話、ルーツが私の2つ目の教科書のようなものだった。だから、その母親たちの顔を今も忘れることができない。
ニンゲンが生物の中で最も馬鹿な生き物ではないかと疑っていた私は、その人の顔を見ながら思った。
「この人、自分が素晴らしいニンゲンだと思っているんだ」
あまりにも自分とかけ離れた価値観…。
40代になった私の所に一時期たくさんの大学生が集っていた。
「あの人の所へは行ってはいけないと母親に言われた」
という学生があとをたたなかった。こちらは給食のおばちゃんさながら、大勢に食事まで提供し相談にのっていたのだが、誤解しないでほしい。決して私が彼らを好んで呼んだわけじゃない(笑)ネットワークビジネスのように口コミで広がっていったようなもの。
「きっとその人、何か魂胆がある」
それは自分が魂胆なく人の話を聴いたりしないということを同時に表しているし、我が子のことさえ信用していないということがわかる。
結婚も同じだった。
自分は素晴らしいと思い込んでいるとしか思えない、他者を排除しようとする人々と、ニンゲンは生物のなかで一番バカだと思っている私。
合うわけない(笑)
こうして親が、幼少期から着々と子どもをコントロールし『差別するニンゲン』を創造していくんだと良い勉強になった。
我が子が自分で思考することを許さず、なぜだか自分だけが正しいと決めつけている。
人より優位に立つと『思い込む』ことでしか自己を認めることさえできない。
だが実際には決して優位なんかではない。だからそれができないと『劣等感』に苛まれる。
誰よりも優劣を決めつける価値観を持ってしまったがゆえに『劣等感』に苛まれるニンゲンになるわけである。
そもそも自分はバカな生物に生まれたと思っていれば、劣等感も優越感もどうでもよいと思えるのだ。
何かで首位になったとしても
「ああ一番なのか…」
かけっこと同じである。孤立しても
「あぁ、通じないなぁ」
と、同化できないことの確認をするのみ。
社会の馬鹿さ加減を目の当たりにすると
「自分はなにもできておらず荷担者になっていた」
と同じバカであることを自覚する。
理科で他生物について習わなかったのか?
テレビで海外を観たことがないのか?
動物を見たことはないのか?
わざわざ他国に住んでみなくても、テレビで十分理解できるはずだ。
『自分だけが正しいわけがない』と。
黒人差別、先住民の殺戮、日本においても朝鮮人差別、奴隷、人身売買、臓器売買、枚挙にいとまがない。
本当に解決したいなら黒人差別云々の前に、まず自分とゴキブリが対等な生物だと自覚することから始めたい。
今日生きるための飯があるのに、もっともっとと他者や他生物のものまで搾取するようなニンゲンが、既に差別する生き方を選択しているのである。
いつも問題が起きると自己正当化するための『お話』を創り始めるのがニンゲン。
私のようなマイノリティを、善くも悪くも『差別』してきた人は多く(笑)その顔を、じっと見てきた。
不思議だったのだ。
どうして、そんなに自分が素晴らしいと思い込めるのか。
私はいまだにニンゲンが地球で一番バカだという価値観を払拭できない。
この醜いニンゲン社会を創造したのは、他の誰でもなく私たち自身である。
延命やら長生きやら、支配、金の独占、土地の独占、サプライチェーン、憧れるどころか、その『お話づくり』が全く面白くなくてこまる。
陰謀があろうとなかろうと自分の世界は自分で創りたい。
生きるためでない仕事はなるたけしたくない。
その上で失敗し、死ぬ時が来たなら死ねばいい。
どうせ自分の構成元素もバラバラになって空気や水に変化するだけだろう。
ものすごくシンプルなのだ。
人に認められようが認められまいが、やるべきことをやって自分で完結したい。
どんな人も自分のために生きている。
動物は自分のためにしか生きない生き物なのだと思う。
万物を愛することができるのは、懸命に生きている生物すべてが仲間であると思うからだ。
自分もできるだけその仲間に入れるように努めたいと思う。
まだまだ馬鹿な生物の域を脱してはいないけれど。
今日もみなさんありがとう。
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