ある人の事を話す。
「どうやって生きてるのか、よく分からない人なんです。」
相手が答える。
「貴女もそうだけどね。」
確かにそうかもしれない。
当たり前の記憶が薄れていく大人たち。
恐怖に苛まれ右往左往する姿。
だけど赤ん坊の頃にわかっていた事がある。
「きっと何も困らない」
生まれたものは皆死ぬということ。
「そろそろあなたも老後の心配をしなくてはならんだろう」
60代の人に言われた。
わからない。
なぜ生きてるかどうかもわからない未来に対して、何十年も前から『心配』になどエネルギーを使うのだろう。
そんなものにエネルギーを使って今を雁字搦めにするなら、雀でもゴキブリでも知っていることに皆が気づけばいいだけのことだ。
もしくは自分だけ助かろうという思考ではなく、皆で助け合う方法を考えればいい。
動物たちはそうやって人間のような恐ろしい生き物から身を護っている。
そしていつか何かで死ぬ。
私は、真の富は印字の桁ではないことを生まれた時から知っている。
富とは裸になっても持てるモノなので、誰にも奪うこともできない。
またそれは枯渇するものでもない。
だけど人間の創ったお話を信じる人々が数えきれないほど存在する世界では、それに合わせることが不可欠となり、無意味な会話を続けることにもなる。
当たり前の世界を当たり前に知っている他生物との会話の方が話が早い。
面倒で複雑な迂回ルートを前提条件と仮定して、まるでそれが正しいかのような話をするのは全くもって面白くない。
この人間だけが信じているお話を、雀やゴキブリのように気づいて行動するなら、途端に自然淘汰が早まり、弱肉強食の厳しい世界が再来するのかもしれない。
だから目を瞑り耳を塞いで、都合の良いファンタジに―に身を投じている人も一定数はいるのかもしれない。
時に真剣に、己たちサピエンスが地球上で特別素晴らしいかのように本気で思っている人と出会ったりすると、いかに我が国が税金投入している義務教育が無駄になっているのかと嘆かわしくなる。
人間のみにしか通じないお話と、実際に在る自然界の姿。
このファンタジーとノンフィクションの切り替えは、私にとってはメリットよりデメリットの方が圧倒的に多く、人生を通して負の連鎖を断ち続けた努力にも関わらず、子孫にも簡単に継承されてしまう。
「そんなこと言ってたら生きていけない」
と99.9%の島人が言う。
果たしてそれは本当か?
世界に遺る先住民たちは、お話を創った人間が虐殺したり強制したりしなければ、今も平和に暮らし続けたはずだ。
生きていけない生き物を量産するほど地球はバカじゃない。
確かに厳しい世界にはなるかもしれない。
ご存知のように、昆虫でさえ、日々たくさん死んでたくさん生まれ続けている。
私たちの細胞も同じく、沢山死んでたくさん生まれ続けている。
だから自分もいつ、そのたくさん死ぬ方に入るのかと不安になるかもしれない。
でも老後のことを心配する昨日や今日の時間より、今確かに一緒に生きている存在を愛することの方が億倍も兆倍も幸福である。
ニンゲンはいったい何にエネルギーを使っているのだろう。
本当に誰かの創ったお話を信じているのだろうか。
「なぜあなたは不幸なんだ?」
と私に問う人がいる。
多分何か勘違いしているのだろう。
自分が同じような状況で幸福でないのかもしれないが、私には全く関係のないこと。
他人とは価値観が異なるし視ている世界も違う。
去りたいなら去ればよいし、居たいなら居ればいい。
そうやって365日、私の目の前に数えきれない他生物が訪れては去っていく。
同じである。
誰かの人生と私の人生は全く関係のない事なのだ。
徹底的な自立。
他生物も自分も同じ、死ねば原子に戻るだけ。
人間のお話は遊びの一種で、意味づけをするのが暇つぶしみたいなもの。
喰うためのものを栽培することさえ本来は不自然。
地球は用意してくれていたはずだから。
真実は虚無 リアルはファンタジー
これ以上の答えは今見つかっていない。
だからただ歓喜して遊ぼう
それぞれに。
今日も皆さんありがとう。
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