人生の中で、例外的なことは数えきれないほど起きる。
それを人は奇跡と言うが、全ては単なる結果である。
ではなぜ、人智では起こり得ないような奇跡という結果が起こるのか。
それは天からの声。
「このまま行ったらお前死ぬぞ」
というメッセージ。
そこまでしてでも悔い改めないといけないことがそこに在る。
息子の事故だけでなく、娘も奇跡的に命を取り留めた。
あの日娘は、仕事でホテルにそのまま泊まる予定だった。
ところが急遽とりやめて、夜に帰宅した。
翌未明、あのくも膜下出血の昏睡状態のような恐ろしく大きな工事現場のような音。
普段ならその時間、私は一階に降りて朝ごはんを作り気付かなかったはずだ。
なぜかまだ二階にいた。
部屋に飛び込んだら、目を剥いて顔色も紫色、ゴーゴーと不自然ないびきをたて植物状態のように動きもしない死にかけた状態の娘がいた。
毎日マスクばかりして呼吸も出来ていなかったし、(酸素濃度勾配で当たりまえ)インカムやスマホで飛び交う電磁波に曝されまくっていたからかもしれない。
同居人に
「救急車!!」
と叫んで、心臓マッサージと人工呼吸を続けた。
暫くして救急隊が到着。
その直前、娘は奇跡的に息を吹き返した。
そこからもう3年。
体質改善をすれば、肌も綺麗になるし、思考も変わる。
当時は「心技体」の「心」が全く機能していなかった。
いまはかなり整った。
当時、感謝の気持ちが持てないと言っていたが、助かったことは当たり前でも奇跡でもなく
「これでわからなければお前は終わり」
という天の声だと私は何度も言った。
「奇跡とは他人が思うほど綺麗なことではなく、無い方がいいに決まっている」
とも。
仕事で例外的な結果を出す奇跡や人や物との出会いの奇跡と、命に係わる奇跡とは似て非なる物。
長男が、半年で奇跡的な幸福を現実化したのは、彼が劇的に自分の思考を変えたからだ。
神経回路をリセットして一から繋ぎ直しただけでなく、生き方を変えたのだ。
娘は時間がかかった。
だけどこうして生きている。
多分方向性は間違っていない。
だけど天の声は正直で、歯列矯正のように針金が外れて感謝の気持ちを忘れるとすぐに元の木阿弥。
その奇跡を間近でサポートしたのが私。
でも、それは私にも視えるリアルのファンタジーでもあり、私自身も多分別の目的でそこに関与させられているのだ。
自分の病はなんでも自分で治してきた。
だけど母は常に自分の病気を探していた。
肝臓癌の末期なのに三日続けて大量に輸血され、七転八倒して死んだ。
「主治医の先生はいい人なのよ」
と笑顔で別れた最後の母の顔が忘れられない。
信じるものがその人の世界のすべてなのだ。
つまりは自己責任。
現実というリアルは自分が創るファンタジーなのだとよくわかっている。
「人間ごときに生命の神秘など絶対にわからない」
と幼稚園に入る前から思い続けている私は、ある意味徹底的にニンゲンを馬鹿にしているし、逆に徹底的に生命の力を信じてもいる。
死後の世界が無いと思いたいのに、先に逝った数々の存在が起こす不思議な現象は、もしかすると私の脳の電気信号が創りあげたファンタジーの一部かもしれない。
誰かに誰かの人生を強制することはできない。
それぞれが信じて思い込んでいる世界がすべて。
誰かの人生を強制できる、そんな傲慢な生き物がいるならどれだけ素晴らしいのかじっくり見てみたいものだ。
だから皆さんも勘違いしないで欲しい。
私は決して奇跡を起こしたことを自慢して歩いているわけではないのだ。
誰にもこんなことは起こってほしくない。
でももし起こってしまったなら、大きな失敗をしてしまったなら
「こうやって覆すことができる」
と、小学生にでも分かるように書いただけなのである。
必要な人にはひとりでに届く。
必要のない人は読まなくていい。
金儲けのために書いたわけではないから。
今日も皆さんありがとう
0 comments