日本人が絶滅するなんてことが、何年も前から取りざたされている。
こうなる、ああなるというネガティブキャンペーンが溢れかえる。
見たこともないのに、誰かに教えられ、地球があると思い込んでいるように、誰かの発表を信じ込んでしまったら、実際存在しなくても存在することが可能になる。
大雨の日に、軍隊蟻が一斉に巣の外に飛び出し、列になって移動する姿は何度も見た。
太陽がキリマンジャロの向こうから昇ってくる光景もこの目で見た。
夕陽がRendezvousの前の水平線に沈みゆく景色は毎日違っていたし、夜になるとミルキーウェイもはっきり見えた。
電気ガス水道のない村で、人々は日本人よりずっと瞳が輝いていたし、日本人よりずっと助け合っていた。
だけど『思い込んでいる』だけで本当にそうかどうかわからないことは、今も山ほどある。
誰かに起こっても自分には起こらないことだって山ほどあり、偶然か真実かの境界は曖昧だ。
日本にいると
「それは無理だ」
という言葉をうんざりするほど耳にする。
「生きているのに何が無理なの?」
といつも心の中で叫ぶ。
手も脚も動くし、目も視えている耳も聴こえている人が無理って????
多分彼らの日本語はこうなのだ。
「お前が出来るとは考えられない」
とか
「自分は絶対にやりたくない」
など。正しく変換したらきっとそうなる。
自分の人生は自分が創っている。
だから誰かに強制されるべきものではないし、また強制できるような素晴らしい人は人間社会にはいない。
世界中探したってどこにもいない。
ただそれぞれに自分のファンタジーを語っているだけ。
だから素直に正直に話すことは誰にだってできる。
多様性を認める‥‥なんて言葉も要らない。
生まれた時から皆そうなのだから。
誰かに何かを強制しようとする類が、ニンゲンと言う生物の中にいつの時代も一定数いる。
いい加減にお節介はやめた方がいいのでは?と四六時中思っているのは私だけだろうか。
そう四六時中思っている。
なのに、思い込みの世界に生きていて、それが皆同じだと決め込んでいる人々に合わせた話をしなくてはならないことがなによりも苦痛である。
通じるのは決まって他生物。
子どもの頃から『それはすべて人間の創ったお話だ』とわかっていることを、まるで正しいかのように話す大人に最低限の敬意を示す方法は『笑って流す』こと(笑)
だけど、それも自由。
大多数が誰かのお話を信じて、それしかないと決めつけていたとしても、その中で歓喜して生きているなら幸福だ。
それを邪魔する気は毛頭ない。
ただ、私は仲間になれない。
なぜ十代で永遠の眠りにつかなかったのかといつも考える。
小学生時に『真実の追求』を人生の目標にしてしまったから潜在意識が自分の人生の過程で次々無理難題を越えさせる事象を創ったのか?
それとも選択の連続の中で、常に困難極まりない方を選ぶから、現在のようなルートを辿るのか?
モノにも他人のお話創りにも、真実以外に興味がない自分は、生れてからずっと「これは本物か?」と全てをジャッジする。
愛も友情も何もかも。
そして、人々がほぼ同じような思い込みをしていることに気づく。
子どもの頃は気づいていたのに、そのうち諦めて周囲に合わせていく。
真実はそういったニンゲン達によって消されていく。
そんな世界が心底面白くなくて、その人間世界の間をかいくぐり、道なき道を創造してみる。
自分の人生はGAMEだ。
転生は在るのかどうか確かめてないからわからない。
それを死んでから見るのではなく、できれば生きている間に半分くらいは視てみたいとも願っている。
もし、ニンゲンが誰かのお話を一切信じなければ何が起こる?
秩序は失われるかもしれないが、真の弱肉強食が訪れるだろう。
他の人生に介入している暇などなくなる。
いずれ群れは少人数で落ち着いていく。
厳しいかもしれないが、金のために他生物の虐待や環境破壊をしたり、次々にゴミを産み出すこともなく、地球にとっては素晴らしい世界。
しかし結局、お話創りのうまいリーダーが頂点に立つ。
そして歴史は繰り返されるのかもしれない。
栄華を極めたものは衰退する。
バイオリズムと同じ。
地球が生命体なら地球もいずれ死ぬ。
世界はいつだってクリエイターが創っている。
ただお話創りが上手ければそれでいい。
もし万物の平和を考えるなら、ニンゲンが言葉を失うことが最もいいのかもしれない。
今日も皆さんありがとう。
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