人間世界は常に狂気が渦巻いている。
だからこそ生物の中で一番バカなのはニンゲンじゃないかと思ってしまったわけで。
でも此の狂気の沙汰は、土を殺し、昆虫を殺し、動物を殺し、植物を殺し、同種まで殺戮してきたニンゲンが、自分たちの知らぬ間に、もっと大きなエネルギーに衝き動かされているように見えて仕方ない。
そんな馬鹿な生物が考えに考え抜いて何かを創ったところで、それは全体の循環の一部にしか過ぎず、地球はびくともしないのではないか。
私たちは数えきれない生命を毎日喰らい、祖先からの連続した殺戮にも荷担して生きているわけだが、果たしてその殺した生命の意識はいったいどうなっているのか。
その哀しみを、癒し昇華させているだろうか。
死後の世界を語りながら、それを単に恐怖を正当化する創作として利用するだけなら意味がない。
万に一つ、そこが虚無ではない場合、自分が確かめに入るその時、真のリタイアができるような世界でなければいけない。
少なくとも私はそう考えている。
虚無で何もなければ万々歳。
でも万が一次があるなら、もはや一点の曇りも要らないのである。
7代先の子孫のことを考えて行動するという先住民の教えもあれば、7代先まで祟ってやるという恨みの言葉もある。
実際、ある家系の子孫が泡を吹いて次々に亡くなったという話を聴いたことがあり(その家の屋根や床下などに炭疽菌やペスト菌でも蔓延していたのかどうかはしらないが)その原因はある動物の祟りだと言われていた。
子孫が当たり前に命を喰らい、自分の生を全うすることなく、また搾取や荷担に走れば、殺された生命の意識がとてつもなく恨みを増大させるのはわからなくもない。
ではどうすればよいかと、私は幼児なりに考えた。
負の連鎖をとめることは先祖の供養になり、子孫の繁栄につながる
私は宗教は信じないが、今やそれしか、祖先に殺されたすべての生物の昇天に貢献できることはないとも考えているし、今日自分が殺して口にした生命へのせめてもの償いでもあると思っている。
もし生命への畏敬の念を忘れてしまったら、それらの増大した意識はすべて荷担者に還ってくるのがこの循環の世界に於いて自然かつ必然である気がする。
逆に考えれば、ニンゲンごときが技術なるもので何かを創り出したりしなくても解決できることがあるのではないか。全員死ぬということを個々が受容でき、
恐怖で狂気にならなければ「2年前まで人々は不死身だったのに、今回のことで死人が出るようになったのよ!!」という思考にはならない。
いつだって生まれたものは死ぬ。
自分で毎日殺しているのにそれがわからないとしたら、それこそ狂気だ。
生きるということは何かが代わりに死んでいるということ。
だからこそ殺戮は最低限にとどめおくべきだし、傲慢にも自分が素晴らしいなどという思想を持たず、地球に任せておくほうが賢い。
生まれたものは死ぬ。
いずれ絶滅する。
本当に星が在るなら星も死ぬ。
でもまた生まれる。
ニンゲンはニンゲンという箱から出て、地球の一生命になればよい。
それが天高く昇り、迷路の出口が見える唯一の方法なのかもしれない。
昨夜、庭に猫がいた。
私が出ると裏から走って逃げた。朝、イワシの頭が散乱し蟻がたかっていた。ゴミ箱にいれた夕食のイワシフライの残骸だ。
「どうやって蓋をあけたのだろう?欲しいなら容器に頭を置いておいたのに。きちんと食べられたのかな?」
と言いながら、水を流し掃除をしていると、娘が手伝いなが「どうやってそれを言いにくるのよ」と笑って言った。
昨日たくさんの飛行機雲があった。その直後から雨だ。
土の生物たちには恵みにもなる。そして人間の悪行をその微生物たちは浄化してくれる。
自分を助けてくれる微生物を殺してしまうような行いを狂気と呼ぶ。
空と土と水に感謝しなくては。
万物に幸あれ
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