巷では事件にまで発展する可能性のある浮気という代物……
離婚相談に来る人たちも大抵はこれでした。
15歳の頃、40代の経営者さんたちが家まで私を迎えに来て、よく呑みに連れて行ってくれました。(もう時効ですよね)
身体の関係を持つ持たないに関わらず、世の男たちは浮気心があるのだとよくわかりました。ですから結婚が幸福などとは考えもしませんでした。
高校生の頃、バイト先の上司数人に愛人になってくれと頼まれたりして、そういうものにもホトホト嫌気がさしていました。
離婚するから結婚してくれと言われ、実際に離婚されたりして、付き合うとも言ってないのに困惑したことも度々ありました。
こういうとき、こちらに気がなくても相手の彼女や奥さんは私に腹を立てるものです。
それが全く理解できませんでした。
私も旦那に浮気をされたことはありますが、相手の女性に嫉妬心や憎しみを感じたことがありません。
浮気を隠している旦那に対しては
「彼女を愛しているなら、まさか化物みたいに人に隠したりしないよね?それって愛ではなくてセックス目的の都合の良い玩具のようで、彼女にとても失礼じゃないの?」
と逆にたしなめました。
隠すということはそもそも自分がそれを「悪いこと」だと定義しているということですし、相手を愛していないことが容易にわかります。
それでもセックス目的で浮気をしたいというなら
「どうぞご自由に。細菌感染が汚いのでここで終わりましょう。」
飛沫感染を怖がってマスクをするより粘膜のほうが危険でしょう。
裁判なんてする必要もないし、相手の女性を罵倒する理由もないし、付き合いたいなら付き合えばいいじゃないですか?
そう伝えていたのに、それが私の本心だとは離婚するまで旦那たちは気づかなかったようです(笑)
私なら、愛している人の存在をまるで目の上のたんこぶのように扱って、人に隠すことなど絶対にできません。
身体の関係を持った人とは結婚する主義の私には、浮気はあり得ません。
でも既婚時に好きになった人は一人だけいます。
当時、旦那は愛人がいることを隠しているのを知っていましたが、私の方は隠さずに正直に
「好きな人がいるのよ」
と伝えました。
彼とは結局付き合うことはありませんでしたが、出会ってしまったことをなかったことにできるわけがありません。
私にとってはそれはコニーサンとの出会いと同じでした。
もしもコニーサンが私のもとから去って帰ってこなかったとしたら、私と共に生きていたくなかったということです。
『迷子』と『本人の意思による別離』は、似て非なるものです。
無理矢理とめるべきものではありません。
どう生きるかは誰かが強制できるものではなく当人が選択すべきものです。
浮気だって本気だって止められるものではないですし、浮気相手を殺しても何も解決しません。
相手を抹殺してもその人が自分を愛したりはしないでしょう。
それを愛とは決して呼べないのです。
愛していても共に生きられない場合もあります。
愛は勝ち負けではないし、コントロールでもないと思います。
どんな形であれ、互いの意思でそこに愛が在るとき、愛しあうということになるのでしょう。
ひとつ屋根の下にいても愛し合っていない夫婦は数えきれないほどに存在します。
『浮気』を問題視して滑稽な言い訳を創作したりするニッポンですが、そんなことに命の時間を使うならもっと有意義なことにエネルギーを使い、人生を切り拓いて行くほうが子孫のためにもなるのではないかと思います。
時に法律は便利なものですが、自分の人生はやはり自分で切り拓くべきものではないでしょうか。
永遠に変わらないものなどこの世には存在しません。
地球環境がこれだけ変化しているということは、私たちも古代と同じ脳ではないし身体でもないでしょう。
自分が永遠ではないのに、相手に永遠をおしつけるような人間にはなりたくないものです。
これらは個人的な考えですが、だからと言って決して浮気を助長しているわけではありません。
永遠などないからこそ、いま、自分と共に生きてくれている人がいる奇跡に、ありがとうを伝えたいのです。
今日も皆さんありがとう。
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