悲しみと怒り

この世は些細なことが満ち溢れています。

些細なことで喧嘩をしたり

些細なことでクレームをつけたり

些細なことが許せない人は

怒りを抱えています。

 

些細なことに歓び

些細なことに感謝し

些細なことに気を配る人は

愛を抱えています。

 

怒りは欲求不満の表れであり、それらは自分の人生に納得して生きていない人々が多く持つようにみうけられます。

他者からの愛を求めていたり、悲しみや辛さを持っているのは自分だけだと思いこんでいたり、自分ばかりに視点を合わせる人に多く見られる傾向のように感じます。

愛の人は、全体を見る傾向があり争いが起こると悲しみます。互いに尊重しようとし、平和的な解決方法を試みる人が多いように思います。

 

怒りは求める時、悲しみは与えた時に持つ感情でしょう。

 

自分の世界は自分で創っています。

誰かが作ったシステムを正しいと思い込み、雁字搦めになるのも自分。

自分で解決できなくて誰かに責任転嫁するのも自分。

そうしたからといって自分の人生が好転するわけでもなく、同じような些細なことがおきればまた同様に反応するでしょう。

そうすれば、その生き方を選択している人の道は永遠に辛く悲しいものになるでしょうね。

 

自分のことしか視えずに生きる人と全体を視て生きる人との価値観は、ほぼ真逆で融合することはないように思いますが、自分しか見ていないその存在を誰かが受容し愛していけば、共生は可能だと思います。

どちらも地球が生かしてある存在なので、この星には必要なのだと思います。

 

植物や動物に畏敬の念を持ち、自分は地球の埃のような存在だと自覚していると、些細なことで目くじらを立てる自分の姿が滑稽で情けなくなります。

かく言う私も、子供に怒鳴る日もあれば、夫に約束を守れと詰め寄ることはありますが(笑)

「そうだ地球が生かしてあるんだ、自分はジャッジできるような偉そうな存在ではない」

ということをいつも思い出すのです。

 

怒りをなかなか棄てきれない方は、

先ず自分に嘘をつかないこと。

納得して選択すること。

他者の幸福を受け容れること。

地球全体を感じてみること

をお勧めします。

 

すべて、捉え方ですね。

 

怒りは自分で自分を不幸にする簡単な方法です。

時に腹立たしいことがあるかもしれません。悲しいこともあるかもしれません。

でもその対象に、自分の人生をさらに不幸にさせるのは、あまりにも滑稽です。

たとえ涙を流しても、たくさん流したその後は、前を向いてみてください。

どんな存在も誰かに強制されるべきではないかわりに、誰かを強制すべきではないと思います。

平和的な解決方法を考えられるなら種をこえて共生すればよいし、争いたいならば、種をこえて争えばよいのかもしれません。

 

すべては本人が創造する世界ゆえ、変えることも選ぶことも自分しかできないのです。

今日、何を選択しますか・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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