悲しみと怒り

この世は些細なことが満ち溢れています。

些細なことで喧嘩をしたり

些細なことでクレームをつけたり

些細なことが許せない人は

怒りを抱えています。

 

些細なことに歓び

些細なことに感謝し

些細なことに気を配る人は

愛を抱えています。

 

怒りは欲求不満の表れでもあり、それらは自分の人生に納得して生きていない人々が多く持つのかもしれません。

他者からの愛を求めていたり、悲しみや辛さを持っているのは自分だけだと思いこんでいたり、自分ばかりに視点を合わせる人に多く見られる傾向のように感じます。

愛の人は、全体を見る傾向があり争いが起こると悲しみます。互いに尊重しようとし、平和的な解決方法を試みる人が多いように思います。

 

怒りは求める人、悲しみは与える人が持ちやすい感情でしょう。

ですが、時に社会の不条理な行いに膨大な怒りの感情が湧いてくることがあります。

個人に対してではなく、世界や全体、ひいてはサピエンスなどに。

そういう怒りのエネルギーはとてつもない破壊力があります。

押し殺さないで、それを全部光の方向に使えば、世界は浄化されるのではないかと思ったりもします。

何故なら、過去歴史において、ムヒカ大統領やガンジー、ネルソンマンデラなどの人々を助けた偉人たちは、根底にまず怒りの感情があったのではないかと感じるのです。

 

自分の世界は自分で創っています。

誰かが作ったシステムを正しいと思い込み、雁字搦めになるのも自分。

自分で解決できなくて誰かに責任転嫁するのも自分。

 

利己的に生きる人と、全体を視て生きる人との価値観は、ほぼ真逆で融合することはないように思いますが、自分しか見ていないその存在を誰かが受容し愛していけば、共生は可能だと思います。

どちらも地球が生かしてある存在なので、この星には必要なのでしょうし、個人がジャッジできることではありません。

それは単に好き嫌いの問題で、もし本当に嫌いな人がいるならアデノシン三リン酸一つも相手に使わないようにすればよいのです。

そうすれば自分の世界から自然淘汰されます。

 

植物や動物に畏敬の念を持ち、自分は地球の埃のような存在だと自覚していると、些細なことで目くじらを立てる自分の姿が滑稽で情けなくなります。

かく言う私も、子供に怒鳴る日もあれば、夫に約束を守れと詰め寄ることはありますが(笑)

「そうだ地球がこの人間を生かしていて、自分はジャッジできるような偉そうな存在ではないんだ」

ということをいつも思い出すのです。

 

すべて、捉え方ですね。

 

怒りによる暴力は自分で自分を不幸にする簡単な方法です。

時に腹立たしいことがあるかもしれません。悲しいこともあるかもしれません。

たとえ涙を流しても、その後は前を向いてみてください。

どんな存在も誰かに強制されるべきではないかわりに、誰かを強制すべきでもないと思います。

平和的な解決方法を考えられるなら種をこえて共生すればよいし、争いたいならば種をこえて争えばよいのかもしれません。

 

すべては本人が創造する世界ゆえ、変えることも選ぶことも自分しかできないのです。

今日、皆さんは何を選択しますか。

 

万物に愛を

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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