時間と自由と欲

命の時間の殆どを、私たちはどのように使っているでしょうか。

喰って寝て出して交尾する、この繰り返しで循環の中で死んで逝く・・・・・本来、生きるとは、それだけの話だと思うのです。

ですが、便利になって怠惰になって持てあました暇な時間を、生きることとは関係のないモノを創ったり、それを「仕事」や「勉強」と呼んでみたりして命の時間をを費やしているようも見えなくはありません。

モノをたくさん欲しがる人もいます。身体が一つしかないのに溢れかえるバッグや靴や服・・・・・いったいどうしたのでしょう(笑)

四季に合わせて数パターンのアイテムがあれば事足りるのに、コットン畑で他国民を農薬漬けにしたり、動物の皮を必要以上に剥いでまで、それらを欲しがるニンゲンもいます。空を仰ぎ、道端の草を見ればわかることを、わざわざ塾で教えてもらわなければわからないと思い込んでいる人もいます。

自由を求めるなら覚悟が要ります。システムを捨て、狩猟採集に戻り、弱いものは縄張り争いに負けて殺される世界になれば、余計なモノを欲しがって他生物や他国民をむやみに殺さなくて済むようになるでしょう。自分が生きることにめいいっぱい時間を使える生活になるでしょう。

自由とは、そういうモノではないかと思います。

多くの情報や知識、他言語や文化などを「知る」ことが必要だと思い込んでいる人は少なくないと思います。自分自身もついそこに流されそうになることもあります。ですが、ふと道端に建つ古民家をみて想像するのです。この家の人が信じて疑わなった日本のシステムを、虚構だと知ったからと言って、果たしてそれはどのくらい此処の住人の生涯に不幸をもたらしたのだろうかと。欲が留まるところを知らず、日本人は殺人鬼さながら怠惰になったと感じる私と、便利で楽になり、良い会社に就職出来て、子どもが死なずに大きく育ち、孫もでき、薬剤を服用していたとしても80をすぎてなお生きているとしたら?その人はとても幸福かもしれません。

先に述べた、毛皮や数え切れないほどのバッグ同様、国の裏側など、現状に納得している人には必要のないものなのではないのかもしれません。誰かにとって必要なものが、別の誰かにはまったく価値のないモノだということはたくさんあるのです。

ニンゲンは自己と他者を同化させたがります。その孤独に対する恐怖が支配につながります。

もし、全ての人が他者を尊重し、支配欲を捨てれば、平和は一瞬にして訪れるでしょう。奴隷が少し弱い奴隷を見つけ支配しようとする様は滑稽です。孤独の恐怖から、我が子をコントロールしようとする親も滑稽なのです。孤独感はさらに強くなるだけでしょうから。

多くの必要のないモノに命の時間をすり減らすことより、自己の世界を創造することにそれを費やすことで、結果的にシステムに安易に流されない自由な世界が出来上がるではないかと感じます。小さな枠の中で生涯を閉じていくことも、本人の選択ならば他者が強制することはできないでしょう。

支配欲を持つニンゲンは誰かを支配しているかのように錯覚を起こしていますが、結局「誰も支配できない」ということが真実だと思われます。

その顔さえ同じに視えているかどうか証明のしようもないのに、愛している人とも同化することはできないのです。

自分の身体であったとしても、皮膚細胞に角質化することを止めろと命令することはできません。腸内細菌を支配することも皮膚常在菌を支配することもできませんし、それらを受容し共生しなければ、多分自分も生きてはいないでしょう。

全てが脳の創造した電気信号の視せる世界だとしたなら、地球もどこにも無いでしょうし、自分も存在しないでしょう。

もしそれでも、現実に私たちが生きているとすると仮定するならば、有意義なことに命の時間を使わなければもったいないですね。

自分の大切なことに命の時間を使っていけたなら、満足できる人生を創造できそうな気がするのです。

 

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

Pocket

0 comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です