模倣

「おぎゃあ」と声を上げ、この世に出てきてから、私たちは親を真似、兄弟を真似、模倣することで生き方を学ぶ。だからこそ、誰の模倣をしてきたかで人生は大きく変わると思う。

いつの間にか記憶を失い、まるで自分が考え出したかのように話す人もいるが、死ぬまで誰かの模倣しかしない人だって大勢いる。

それを「自分の価値観」と呼びながら、何も調べもせず、試しもせず、一斉にマスクをしたりするような生き方をしているから面白い。

「自分の価値観」ではなく「誰かの模倣」なのだ。その選択をした道筋を説明できないはずだ。脳の深部からのびる思考回路を辿れるのは自分で考えたニンゲンだけである。

自分で考える類は、誰かを真似るのではなく、生を受けてから脳にストックしてある数え切れないほどの情報と体験を組み合わせ、予測し、まず「やってみる」ことから始める。やっと結果が出たそれを見た誰かが、理論も理由も目的も分からずにただ「真似る」のだ。

もし真似る相手を間違わなければ、楽ちんな生き方だ。賢いと言えば賢いし、怠惰と言えば怠惰。ただ、周囲の人には決して信用はされない。ニンゲンの多くは勝手なもので、自分がチャレンジすることも学ぶこともしないくせに、模倣する人を信用できないようなのだ。つまり模倣する類は同類を信用しないということで、ゆえに自分を信じることが出来ないのだろう。

また、自分で考えたかのようでも、世界のどこかで同じような意見を誰かが提唱していた時には、ニンゲンという生物の限界を目の当たりにしたりするものだ。少数派ではあったとしても、世界で一番初めにそれをやってのけたのは自分ではない、と何にしても考えておいた方がよい。つまり、発信しているか否かだけで、同様のことを閃くニンゲンは世界にたくさんいるだろうと思われる。

リーダー、中間、虐げられる層に序列は分かれるが、これは優劣と同義ではない。多数を支配している気分になって、誰かの模倣をして徒党を組んでいる類も、街中で固まって寝ているホームレスの人々もかわりない。自分もしかり。

永く生きたいという価値観を多くの人が持っているように見受けられるが、選択を間違えばかえって自分の身体を自分で死に近づけていることだってある。それは「運命」などというドラマティックなものではなく、感覚器の喪失に近いのではないだろうか。例えば病になるとする。周囲を見渡しても誰も完治していないやり方を、大勢=模倣の類がやってるからといって模倣する。なぜだか少数の完治した人の模倣をせずに、なのだ。

安易に模倣する類は、同じく「安易」に模倣できる事柄だけを選択する。日本のビジネスは安易に模倣できることで溢れかえっている。そんな仕事に従事する民に、「自分で考えよう!」と誰かが唱えたところで、細胞を造る食から覆さなくてはならず、生きている間に完了するかどうかもわからない。

その積み上げと軌跡が個人の今を作っている。だから何もかも自己責任だと思うのである。誰かが身体に良いものを教えたとしても、銀行の通帳の印字の桁でしか判断できない類はたいてい「騙された」と叫び始める。好きにすればよい。

熟考してみても、結局、自然淘汰に任せるしかないように思う。助かるものは助かる。

動物は自分のためにしか生きない。

コロナ禍では頓珍漢なことだらけだった。

自分は模倣しているだけなのか、とことん学び、試した結果、最良の方法としてそれを他人に提唱するのか、どちらか明確に話してから行動に反映させてもらいたい。前者なら傾聴する価値もない。後者の場合傾聴する価値はある、と私は思っている。

ご一考あれ。

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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