随筆 122

付和雷同

強がり

天邪鬼

猿真似

オウム返し

先祖の否定

遺伝子の否定

自己否定

 

根源は恐怖。

自分が与えられたものに満足できないかもしれない。

運命は過酷だったかもしれない。

それでも命をつなぐために、他人を、他生物を殺し続けるなら、せめて嘘はやめて自分自身を否定せずに生きろ。

 

生まれてからずっと、不幸そうな人を見てはそう思ってきた。

不幸というのは金がないことではない。

嘘をつかなければ生きていけないような、自分を否定しているニンゲンのことである。

人生が常に恐怖一色の彼らには、幸福も愛も縁がないように視える。

誰かが運よく笑っていると思い込んでいる。

運が良いということはこの世にはない。

起こることは必然

幸福は永続的なもので、愛も留めることができないものである。

心の中に泉があって、ずっと涸れることなく湧き出てくるもの。

生まれた時から死ぬまで。

時に他者に泥を投げつけられ踏みつけられることもあるが、何度踏まれても刈られてもまた芽吹いてくる雑草のごとく。

決して綺麗でも賢くもないが、命を、人生を謳歌する。

 

富とは裸になってももてるもの

たかが一個体の為に溢れるほどのモノを持っても、使い切れないほどの印刷紙を持っても、印字の桁を増やしたとしても、そうしなくては幸福だと思えない哀れな自己否定が存在している。

雀はそうではない。

鼠もそうではない。

ゴキブリもそうではないだろう。

祖先の選択判断の結果がまさに自分そのもので、他者が否定したとしても自分で自分を否定してしまったら不幸だ。

バカな自分が偉そうに優劣を決め、自分を劣性だと仮定し、優れている誰かのように見せるのが虚栄心である。

第三者はその『痛さ』を察知していて、潜在的に怪しさを感じてしまう。

どこからか引っ張ってきた台本のような言葉を吐く人は信用もされず、孤独への恐怖があるその類は、さらに孤独化していくことにすら気づかずに嘘を続けるのである。

 

自分で自分を受け容れる。

善いも悪いも。

ただそれだけで解決することができる。

それが覚悟というものだ。

覚悟なきものは生涯右往左往する。

誰も誰かの人生に一喜一憂していないということに気づけないでいる。

「誰かが僕を見てる!私を見てる!」

綺麗事は、自己過大評価の成れの果て。

 

だけど残念ながら、虚構に生きる者は自己正当化の為に同類と傷をなめ合い、大きな世界を創っていく。

虚構が渦巻く世界を。

引き寄せ。

類は友を呼ぶ。

 

そこに生きたがるニンゲンを視る時、闇の世界にしか視えないそれは、彼らには光の世界に視えるのかもしれない。

不幸そうに視えるその顔は、彼らの幸福な顔なのかもしれない。

瞳の輝きがあるなしは指標にはならないのかもしれない。

 

誰かが言った。

地獄に棲む人々はそれが天国だから棲んでいるのだと。

果たして自己否定が天国なのか自己受容が天国なのか定かではないが、お互い永遠に交わることのない生き物であることは確かだろう。

見た目がよく似ていたとしても。すれ違うことがあったとしても。

 

出会いは幸福のためであってほしい。

個々が素直に生きても、それをまとめる知能の高さがあるのがサピエンスではないのか。

そのための『技術』『進歩』ではなかったのか。

そうでないなら私たちは、初めから猿から退化した地球を汚すだけの馬鹿な生物だったのかもしれない。

 

 

人の幸せは嬉しいものであり

人の不幸せは哀しいものである

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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