随筆 143

美しさは魂である。

『老い』を極端に拘るニンゲンがいるが、外見がどんなにくたびれたように視えても最期の瞬間が一番美しい。

懸命に生きた最後の姿はいつもどんな時も美しい。

我が子に対しても赤ん坊の頃を思い出して

「あの頃は可愛かった」

と思うことがまずない。確かに良い思い出ではあるが、大人になった現在(いま)の我が子が一番好きだから、愛情も日々更新しているようなもの。

愛する存在と共に生きた時間は何もかも宝である。

喧嘩も誤解も抵抗も何もかも。

相手が年老いたから、肥ったから、目がなくなったから、脚がなくなったから・・・・などという理由で別の女とSEXしようと思う男は、初めからその女性のことを愛していない。

自分が好きなだけだ。

逆もしかり。

最期の瞬間が一番美しいと思える時、自分が本当に相手を愛していたのだとわかる。

2歳前後で逝った他の仔たちと違って、リンは全身に腫瘍ができてとても痛々しい姿だった。

コロンは10日ほど抱いて眠ってガリガリになって毛も抜けていた。

他人から見れば

「どこが美しいの?」

って言われるような外見になっていたけど、やっぱり最期が一番愛おしい。

そして素晴らしいことに、そのMAXの愛が、彼らが逝った後もずっと続く。

母は40代が一番綺麗だったとは思うけれど、腹水でお腹が腫れて脚が浮腫んでいても、最期が一番美しいと思える。

 

私も流石に白髪も増えてヘナを塗る程度しかケアはしていないし、日焼けがすごくて顔は真っ黒になったけれど自分で作った化粧水とクリームしかぬらない。

それでも最愛の人だと言ってくれる人間も動物もいて、そういう本当の愛に囲まれた婆さんになりたいと思う。

 

16歳の頃バイト先で店のお客の子供たちに

「おばちゃん!!」

と呼びかけられても気にしなかったし、22歳下の元旦那の『お母さん』と間違われても年齢は気にしない。

できた息子が二人もいるので、彼の母親に間違われることには嫌悪を覚えるけど(笑)

 

30になる頃、全く20代に拘らなかったし、その後の年齢の節目も同様だ。

いつも何も気にならない。

そもそも胸を張って50年生きたとか60年生きたと言えないような命の時間の使い方をしたくない。

年齢に拘る人はとてもとても多かったけど、そういう視覚を持つ人々に魅力も美しさも私は感じない。

だからたとえば大好きな人と永く会わずにいて、どんなに外見が変化していても、髪の毛がなくなっていても、やっぱり愛は更新されるのだ。

ターシャ・テューダは90代でも凛として美しかった。

あんな風に自立した最期を迎えたいけれど、その前にあんなに永く生きても、もう私にはやることがなさそう(笑)

美しい生き物とだけ共生できたら天国。

世の中の虚構が次々に暴露されていて、無害化するのも時間の問題かもしれない。

虚構は醜さの極み。

癌細胞と同じ。

解毒してすべて淘汰してしまおう。

これも祈りの一つなのだ。

人間は生物の中で一番優位なのではなく最も劣化した生き物である。

その醜き劣化した生物として、美しさを求めるのはささやかな自己正当化なのかもね。

 

美しい生物の生きる地球に。

万物にありがとう。

 

 

 

Pocket

0 comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です