随筆 151

幼少期からずっと、私は面白いものを探していたのかもしれない。

幼稚園児の頃に観た原始人のアニメや、小学生の頃に観た奴隷の実話、YASAWAが舞台になった無人島の話などを有難く知恵として享受し、あまり本を読まなかった私が唯一気に入って何度も読み返したのがたしか小学館が発行したとあるサバイバルの本。

小学生の頃には漫画も読んだことはあったけれど、記憶に残るシーンは友達と同じではなかった。

崖から落ちて助かるときにとった主人公の行動や、蛇に噛まれたときにどう対処したかなど、恋愛ストーリーなのにそれとはあまり関係のない場面ばかり。市民側にねがえって撃たれて死んだ貴族のオスカルの心理や、ルイ15世の死因である『天然痘』の症状、キツネ狩りという貴族の遊びや、障害馬術という競技のことなど。興味を持つ視点は今もそう変わらないかも。

よくわからない物にたかる周囲の大人たち、虐めを見てみぬふりする教師、嫁の悪口を言う婆さんたちが社会には大勢いたけど、外も中も同じことを話す両親の正直さの価値など当時はわからなかった。綺麗事に縁がない家庭で生まれ育ったことに今は心から感謝している。でなければ、親でも嫌悪しただろう。

正直に生い立ちを話してくれて、その辛い幼少期を送った二人の為にも、先祖供養とは負の連鎖を断ち切ることだと子供ながらに決めていた。なので、自分の前に来る壁は全部乗り越えてきたつもりだ。法律や宗教さえ人間の創ったお話だととらえていた小学生時の私は、当時は親にも教師にも友人にも自分の考えなどは話せず『一般的な価値観』を前提条件とする人々の言葉に置き換えて会話をしていた。母が私を理解したのは私が40を過ぎてからだろう。

死ぬかもしれないといわれるような病ばかりで病院通いの日々が続き、ついには10代で亡くなる可能性が高いと言われた小学生時。どうすれば後悔なく逝けるかをいつも考えていた。逆にリスクは生き残ってしまったとき。新しいことをしてもすぐに飽きる自分に、死ぬまで終わらない飽きないテーマが必要だった。それが真実の追求。ニンゲンの創ったお話に洗脳されないために無人島で一人生き抜けるような強さをもつこと。

 

他人の世界の創り方に価値も面白みもあまり感じない。

誰かの創ったお話に安易に洗脳される人ほど、自分で創造する人を

「間違っている」

「おかしい」

と罵倒する。

「おかしいのはあなたではありませんか?」

「あなたが正しい間違いを決められるのですか?」

「自分をどんなすばらしい生き物だと思っているのですか?」

と何度言いそうになったか(笑)

でも、洗脳されたニンゲンにこちらの言語は通じない。だから自分と異なる思考回路の持ち主を非難しているわけであり、答えは既に目の前に出ている。闘いは無駄なエネルギー(殺して喰った多くの命のエネルギー)を使うことになるから出来るだけ避けるほうがよい。それに脳も顔と同じように人それぞれ差異がある。どう考え、どんな世界に生きるかは個々の自由であり、強制されるいわれもないかわりにこちらも相手を強制できない。そこに在るのは個人的な『好き嫌い』だけである。

「どうぞご自由に」

と思うしかない。

どのような生き物も自分で選択した結果が今を創る。数を集めるよりも、自分の世界を創造する方が価値が高いと私は考える。

妬みやっかみは究極のエネルギーの無駄遣いで、鶏や豚が虐待されてまで死んで喰われた意味がない。

 

「子供の頃から真実の追求や無人島で一人生き抜けることを考えていたなんて嘘だ」

と言った人が居る。多分、その人が何らかの嘘をつき、周囲にも正直な人が居ないのだと思われる。

虚栄心や承認欲からくるでっち上げや知ったかぶりは脳の深部からの道筋を辿れない。他者の意見をコピペして表面に貼り付けただけの人は、なぜそうなったかを時系列を追って説明できない。そして何より生き様とそのお話が一致していない。その類が醸し出すものを人は『不信感』と呼ぶ。

生まれ持った資質は簡単に変わらない。整形しなければ顔が変わらないように、遺伝子の操作でもしないと変わらないはずだ。

 

言葉にはその人の世界観が表れている。美しい言葉は綺麗に飾られた言葉ではない。感謝という熟語でもない。魂の入った言葉である。

 

生きた言葉を話す人とだけ会話したい。

そうでないなら一生誰とも話さなくていい。

 

 

 

 

 

 

 

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