随筆 161

夏の風は遠い記憶を蘇らせる。

子供の頃からずっと夏が好きだった。

大阪中心部のあの不自然なアスファルトの焼けた暑さで日本の夏にうんざりし、大好きな夏を求めるために、たびたび途上国を訪れてはしばらく滞在するという生活を送っていた。

途上国のあの大好きな夏に住むことはなくなったが、火事の前に逃げる鼠のごとく、この騒動前に田舎移住したおかげで、日較差のある懐かしい夏を感じることができる。

私にとって、夏は、生きることに欠かせない季節。

常夏の国に生まれ『国籍を取得した』人々が羨ましい。バーチャルは要らない。

何においても自分の持てる五感と第六感すべてを使うからすばらしい。先天的に持っていない人は三感でも四感よいが、兎に角すべてを使うから素晴らしいのだ。

祖先の選択の結果できた個人という要素によって、それぞれ合う合わないがあるようだ。

息子は冬が好きだという。考えられない(笑)

そういう個人の嗜好によって自分の身体が欲する食べ物まで違ってくる。

現在の私が健康だからと言って、模倣しても私のような体になるわけではない。

子供たちも皆体質が異なる。

親、祖父母、曾祖父母など、何処で何を食べどんなものを選択してきたかで自分自身は決まっている。

私の0歳児から真似してもだれも私にはなれないし、私も誰かにはなれない。

自分の身体がいま何を必要としているかは自分にしかわからず、それに徹していくことで不具合は改善されていくのだと思う。

食事は、おしゃれだからとか、流行ったから・・・・・など食べるという次元の話ではない。

乾季に食べ物がなくなる動物と違い、日本はそこかしこに多種多様な食べ物がある。

どれをどう選ぶかは自分の感覚、そして智慧。

充分なお金がなくても選び方次第で豊かな食生活を送ることは可能だ。

「喰うために働く」のなら最大限そこに力をいれることが言葉と行動のギャップを埋め、信頼を勝ち得る唯一の方法だ。

その言葉が虚構の場合、「喰うこと」に力を入れていないのですぐに見て取れる。

信用に値しない。

となると実は喰うために働いているのではなく、孤独の穴埋めだったり、交尾相手をみつけるためだったり、劣等感を払拭するためだったりして、承認欲や虚栄心のお化けになってしまうわけだ。

何のための働きをするのか、せめて自覚ぐらいはしておいた方が、誰かと言葉を交わすときに不信感を持たれないでよい。

だが実際、青い空と山や海、土の香りに流れる水があって、近しい人々と笑って挨拶できるような小さなコミュニティこそ平和的幸福は創造しやすいのではないかとも思う。

何度も訪れた途上国の部落や村の人々の話を聞き、時には家まで入れていただいて食を共にしたことで体得した感覚は、私の中での宝である。

なるほど電気ガス水道のない村ではやはりこういうことをやっているのね、とか、熱帯ゆえのこういう食事がお金の無い人を助けているのねとか、まあいろいろ。

寒い国にも先進国にも行ったことがない。

もうすぐやってくる晩夏もまた、様々な記憶を呼び覚ませる。

冬ばかりになったら、間違いなく私は死んでしまうだろう。

温室にこもるかもしれない(笑)

 

太陽と地球の恵みに至福を感じながら、まだ涼しい朝にシェリーと山を眺めていた。

 

 

 

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