永い間生きてると、人生には皆悲喜交交ドラマがあって、時にはとてもつらい想いをするという体験に、何度も遭遇したりもします。
虐待に始まり、事故で障害を負わされたり、DVや果ては様々な責任転嫁まで。同情すべきそのような体験を訊けば、現実を突きつけられたようで胸が痛みます。
人に話さなくても、誰しも辛いことや、どうしても許せないことはあるでしょう。
かつて私のもとに大学生たちが相談に来ていたのですが、その殆どは母親に対する不満でした。
親の悪いところを並べたて、これが出来ないあれが出来ないと気づいているなら自分がすれば良いとたしなめました。
日本の母親神話のように、女性全員が子を愛し手作りの服を着せ、添加物のない料理を作っていないのは他人と付き合いのある人なら今や誰でも知っていることでしょう。
彼らはもう大人でした。親に飯を作らせて掃除洗濯もさせて文句を言う、嫌なら出て行けばよいのです。
大学に行きたいなら働いてお金を得ることもできます。
それなのに未だに神話に洗脳されている人がいるのです。30を過ぎても40を過ぎても親の文句を言う人もいます。
もちろん、母の中の母みたいな女性もいますよ。
でも、私の母も料理などは楽なものを利用するタイプでした。
親になるのは簡単です。
交尾をすればどんな動物でも時期が来れば親になる、それが生物です。
親に不満があるなら、自分は違う人間になればよいのです。
義務教育下では誰も助けてはくれないかもしれませんが、いまや18歳は成人でしょう?
自分の事は自分で決めることができます。
子ども側から考えると、その精子と卵子でしか生まれなかった自分なので、親を否定することは=自分の否定につながります。
今、生きているという事実があるなら、自分の人生をいかに幸福に生きるかに全力を注ぐ方が賢明ではないでしょうか。
過去にとらわれ過ぎると、今の自分までその誰かに支配されているようで、人生が無意味になってしまうように感じるので、私は本当に嫌いな人間の事は自分の脳裏から消します。
一切のかかわりを断ち、生きていようが死んでいようが全く自分には関係ないという感じに。
だからネガティブな気持ちは心に遺りません。
存在していないのと同じですから。
『奇跡は準備ができた者にだけ訪れる』のなかで、同じような場面があります。
ウィンカーを出さずに左折し息子を巻き込んで下半身不随にした被告は、最期まで一度も見舞いにも来ず、自分がいかに刑を逃れるかばかり考えている男でした。
私は初見で人間性をある程度見抜き、そんな人間にATP一つも使いたくなくて、それなら息子の為に使おうと考えたのです。
寝たきりの息子にもそう言いました。すると息子本人も全く同様に考え、拙著に書いたようなことが起きたわけです。
現在も名前は憶えていますが何の感情もありません。強いて言うなら笑いのネタになる程度でしょうか。
ただそれでも、どうしても許せない人がいる時、それはもしかすると哀しみかもしれません。
大好きな人が自分をぞんざいに扱った、ひどい事をした、信じていた人が裏切った、約束を破ったなど。
一度許しても二度三度許してもまだ同じことをする利己的な人もいます。
「こいつなら何をしても良い」と半ば馬鹿にしていることさえあります。
私の場合は、相手を嫌いになれば簡単に許せない感情はなくなります。
どうでもよくなるので、存在しない事と同義になるのです。
でも、本当に相手を信じていたなら、固まった自分の心を溶かしていくのに時間がかかるかもしれません。
そのような視点で、かつて私を罵倒していた人と笑顔で話すとき、本当に私を愛してくれていたんだなと気付くことがあります。
と同時に、自分は誰を信じているのかがわかったりもします。
一口に愛と表現しても、個々によって感情は様々です。
絡まった糸を元に戻すには多くの対話や時間が必要になるかもしれません。
第三者の存在が一助になることもあるでしょう。
互いに許し合える時、許すまでの時間の差異が何十年とかかることもあります。
でもその時を迎えられることは幸福に外なりません。
人生において完了しておきたい事柄の一つはそういうことなのかもしれません。
今日も皆さんありがとう
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