愛と放任

ネグレクトと混同されるとちょっと違うのですが・・・・・・大切な人はあまり助けないことにしています。

コロンのように自分より小さくて、ニンゲンの都合で不自然な場所に閉じ込めている場合は、もちろんその責任として出来る限りのことはします。

ですが、それでも必要以上にかまったり助けたりはしないようにしています。

なぜなら彼ら本来の力をそいでしまうと考えているからです。

 

「奇跡は準備ができた者にだけ訪れる」

というタイトルの本を書きましたが、知人はともすれば私ならいとも簡単に「奇跡」を起こせると考えてしまうようです。

私は幼少期から自分の目の前に現れた壁は乗り越えてきたつもりです。

小さな子どもの頃は逃げてみたものの、余計に遠回りして結局乗り越えないと前に進まないとわかるようになり、後悔したこともあります。

間違いに気づいたら素直にそれを受容し、即座にやり直さなくてはなりませんでした。

また、自分の問題を自分で解決して生きていれば、誰にも責任転嫁などしなくて済みます。

 

ヒントや、辿った道筋はいくらでもお伝え出来ますが、何かを打破するとき、たとえそれが我が子であったとしても、乗り越えるのは自分自身だと自覚してもらうしかないのです。

思い込みが強く、何でも無理だと諦める人がいれば、思い込みを外すお手伝いはできます。

でも準備をしていない人には奇跡は起きません。

依存することと準備することは全く逆の思考です。

奇跡が起きない人は準備が足りないのです。多分それだけでしょう。

死ぬまで準備してもできないこともあると思いますが、その時は遺伝だと思って次世代にバトンタッチするしかないでしょうね。

楽な方に逃げればそこにワープできる場所があるなどということはないと思います。

先祖が大きな失敗をして解決せずに死ねば、それは子孫に引き継がれるような気もします。でも自分はその卵と精子でしか存在しなかったのだから仕方ありません。

 

私は、大切な人にほど冷淡です。

長男の事故で、本人が寝たきりになって何もできない状態になったので、歩行まで導くためにリハビリも食事管理もメンタルケアも私がするほかなかったのですが、病室で淡々と笑いながら息子に同情もしない私に、病院スタッフも当初は驚かれていました。動けるようになってからは、障害が残っていても手助けすることはあまり考えませんでした。

現在の生活スタイルは本人が試行錯誤して確立してきたようです。

次男はかつてアフリカで拉致され、お金もカードも電子機器も奪われてすっからかんで帰国したことがありますが、再びボランティアであちらに住むと聞いても反対はしませんでした。

本人が決めたことなので私が彼の人生をコントロールすることはできません。以前コレラにも罹患し、次はマラリアの危険性もあり恐ろしい昆虫もいますが、心配すればきりがありません。生き抜くためにはそれを越えて帰ってくるしかないでしょう。死ぬかもしれないリスクも孕んでいたので羽田までお別れには行きました。

娘は様々な失敗を繰り返し、周囲にも迷惑をかけたこともあります。親として謝罪はするものの、本人にはどうやって自分で責任をとるのかを考えさせ、助けはしませんでした。ただ娘の出来不出来をそのまま親として受容するのみです。

1~3号までの旦那がいましたが、3人とも私と自分の母親との違いに驚いていました。おかげで価値観が合わず大変でした。

家計管理と食事管理、子どもの勉強までみて自然治癒力を促進させ、時には外での仕事までこなしていたのに、私にそれ以上求めるのはあまりにも怠惰だと思いました。

多くは望みませんが、狩猟採集の時代を本能だと考えるなら、せめて狩猟のかわりである仕事くらいは出来る雄であってほしいと願います。私はママではないので。

夫婦とは役割分担をして相互に扶助するものであると考えているので、私以上に料理や健康管理ができるなら家の仕事を任せこちらが外で働きます。

金銭が伴っても伴わなくても『仕事』には責任が伴うので、適当なことをして家族を病気になどはできません。

ですが甘やかされた人は愛の概念が本当の愛ではなく『甘やかし』なので話が通じないのです。いつまでも誰かが何かやってくれると思い自立しません。

自分が居ないと生きていけないような状態に子供をコントロールするのは、自分の存在意義を他者に見出したり、自分が孤独になることへの恐怖を感じているからに見えて仕方ないのです。

そもそも地球上にいる限り、何処にでも生物は存在しますから孤独にはなりようがありません。

本当に愛があるなら、親は自分がいつ居なくなってもいいように出来る限り子供を手助けせず、一歩退いて見守ることが賢明かと思います。

コントロールしておいて思春期以降に問題を起こしたら、まるで子供がモンスターになったかのように学校や友人や異性に責任転嫁をして逃げるのは、力をつけるために見守ることとは全く違います。自分が失敗したのだから一からやり直すしかありません。

責任感とは他者に対する愛であり、責任転嫁は愛のない人しかしません。

ですがもしもそのような中で育ったのなら、親を恨むのではなく、自分は親と同じことをしないことです。

シンプルです。

先祖供養とは負の連鎖を止めること

自分がされたことを他人にしてしまう人が多いのが、非常に残念なことですね。

 

いつも遠くから見守り続けることの難しさは忍耐を伴います。

逃げることと放任を混同しないよう、愛は残しておきたいものです。

 

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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