抑揚

人間のからだとは不思議なものです。

頭では覚えていても、ある時期がくると、自分にとって不必要な感覚はいつの間にか無くなったりしてしまいます。

もちろん記憶を辿りながら話を合わせることはできるのですが、どうしてもその感覚は蘇らない……まあ、つまり今の自分にはどうでも良くなったというものがあります。この5年で相当ブラッシュアップされたのかもしれません。

 

幼稚園児と話すとき、自分の子供の頃を思い出して話します。そうすると子どもたちとすぐに友達になれました。

中学生と話す時は、自分の中学生時代にタイムスリップして話します。すると参観日に、娘と違うクラスの子が授業を観に来てくれというほど仲良くなれました。

大学生と話す時は、自分の中学生くらいの思考を思い出して話しました。すると、中学生のように感じると言われました(笑)

 

数年前には価値あるものだと思っていたことが、そうでもなくなったのは、すっかり無駄を削ぎ落とし、核心だけにしか興味を持てなくなったからでしょうか。

いつも宇宙からの眺めを想像し、俯瞰的に物事を視ていたら、人間が本当に生物の一種にしか見えなくなって、もはやゴキブリとの差がわからなくなったりしています。

かろうじて人間らしき感覚を想起させてくれるのは、我が子たちくらいでしょうか。

ああ、私はこの子達を可愛いんだなと、認識できることが多々あります。

 

けれども普段は、感情の抑揚さえがとても無駄に思え、人間に対して喜怒哀楽が自分に表れたあとは、とても疲弊し自己嫌悪に陥ります。

もともと動じない子どもだと言われてきましたが、いつからか憧れた、宮沢賢治のあの「雨ニモマケズ」の「でくのぼう」に少しは近づけているのかもしれません。

 

淡々とひたすらに生きることは、自己完結し、傲慢に誰かに意見をおしつけたりして争わず、関与せず、悪意も死もそのまま見つめ、それはつまり、平和の象徴であり、真の謙虚さなのだと感じています。

死ぬことにおかしな方法で抵抗し、決して責任転嫁しない人々に批判やクレームなどという名目で日々の自分の憂さを晴らし、弱いものほど吠えまくる姿は、つらさや悲しみを怖がる表れのようで、自らを誤魔化し続ける虚構の世界に住んでもがいているように視えたりします。

他生物を殺して食べて、わざわざ自分の血肉にするなら、納得のいく生き方をしたいと思いますし、それが地球の「循環」を感じるような、心から生命に感謝できる生き方なのではないかと思うのです。

 

キリマンジャロの朝焼けや、フィジーの日没の海のような美しいものを見ない限り、跳び上がっで喜ぶことはあまりありませんし、自分の余命宣告をうけても取り乱したりすることはないでしょう。

大切な存在の原子がバラバラになってこの世界から消え失せても、循環の一部になっていく姿を、静かに見つめているかもしれません。

そのときは土であり水であり大気の中に、その存在を想うかもしれません。

 

まあそんなこんなで、若者たちが自分を大きく見せている姿はとても可愛いものだなと思います。

お年寄りが話し相手を探して、駄々をこねる姿も可愛いものだなと思います。

 

私は……

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

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