言葉から読む本心

人のためと全面に押し出して来る人。

子供のためとやたら言う親。

あなたのためだから!っていう言葉に実は言われたほうは違和感を覚えているでしょう。

そこには声高に叫ばないといけない理由が何かしらあるのです。

自分にそうあれと言い聞かせている場合や、他者に本心を隠すためだったりするのかもしれません。

客観的意見を述べることは、容易なことではなく、相当の意思力を要します。

大抵は自分の感情に流され、左右された言葉が口から出てきてしまいます。

多分、人間はどのような人が生命力が強いのか知っていて、自分もその優位さがあるかのように見せたくなるのでしょう。

たとえば自分のことしか考えられないから、誰かのためと言いたくなることが往々にしてあります。普段から何もかもストレートに話しているならまた少し捉え方は異なるかもしれませんが、他者と綺麗事で言葉を交わしてお付き合いしている人なら尚更でしょう。

動物は自分のためにしか生きません。私はそれで良いと思っています。

子供のためだと他人にいちいち言わなくても、または子どもたちに言わなくても、本人たちが一番わかっていて愛されている安心感を持っているものです。それは言葉で伝わるものではありません。

たとえ自分が完璧な親でなくても、失敗すれは謝ればいいし、時に怒鳴り散らしたとしても愛は許しに繋がることを互いに知っているはずです。

たとえば夫婦でも、愛し合ってる二人なら、他者に妻のため、夫のためという必要がありません。

怒ったり怒鳴ったりする人は、実は相手が嫌いなのではなくて、愛してほしいという魂の叫びだったりします。残念ながら、そのようなセルフコントロールができない大人を愛することは容易ではありませんけれどね。

また他者との関係でも、自分が満足して生きている人なら、誰かを妬まないし個人を批判する理由が見つかりません。憧れはたいてい妬みに繋がり、その憧れるということ自体が、自分はそのように生きていないという証であったりします。

そこを目指すことが困難だと自分が判断してしまうと、他者の人生を羨み批判してしまったりして自分の心を正当化させようとしたりします。職場で仕事ができる人や優しい人につらく当たる人がいますが、そういう心の葛藤を常に抱えているのかもしれません。

もちろん、他者の才能を認め合える人々もいて、本来はそれが一番強い群れの生き方だと思います。相互に才能を発揮し助け合うことができれば世界だって変わるかもしれません。

自分がきちんと自分を信じていれば、基本的には人の生き様に一喜一憂したりはしないものです。

人のためと叫ばなくてはならない人とは逆に、もしかしたら、自分のためと声高に叫ぶ人のほうが、周りの人々のことを考えている利他的な人のかもしれませんね。

 

しかしながら、最終的に正しいことは地球が決めるでしょう。個人の好き嫌いがあったり、自分の世界を創って生きていたとしても、ジャッジは地球がするものだと私は考えています。

どこまでが主観でどこからが客観的なのか線引きは容易ではありませんが、自分の意見を客観的に顧みるとき、本当に嫌いなら自分の脳から削除してしまうので、削除されていないものは嫌いだと言いながら好きなのだろうと、自己潜在意識を読み取ります。

 

皆さんも、ジャッジはせずに、近しい人が頻繁に発する言葉の本心を考えてあげてみてください。

その人の求めているものが分かり、真の関係を築くきっかけが見つかるかもしれません。

 

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

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