努力

努力していると言われても、実はさほど肩の力も入れずに「当たり前のことをやっているだけだ」という人が時々います。そういう人はそこに苦痛は伴わないし、決して苦しそうにはみえません。

一人では継続できず、誰かに励ましてもらって、仲間を見つけ、湧いてくる恐怖を払拭しながらでしか努力できない人もいます。

これらのセンスは多分どんなに認めたくなくても生まれつきのもので、誰に教えられなくても自然にできる人とそうでない人がいます。努力というのは本来は自発的なものであり、強制されたところで苦しいだけですよね。

もしコントロール下で出来るとするなら、サーカスの象やタイの象のように、監禁もしくは軟禁状態にあることで自由に動けなくさせられていたり、フォアグラをつくるための鴨のように、無理やり口にパイプを突っ込まれて給餌拒否さえできずに生かされている場合などでしょう。

何かの目標を定め努力することは、たとえ他者の手を借りていても、どれも素晴らしいものだと思います。

ではなぜ「努力しなければならない」と教育されるのか・・・・・・

どんな人にも何かしら才能はあるのでしょうけれど、天性の才能をすぐに仕事にできるようなシステムは、現代においては構築されていません。心配のない生活を送るには、面倒なある一定のルートをたどる必要があります。

ですからスラム街に生まれた子どもたちやストリートチルドレンの才能は誰も見つけてくれずに臓器売買に使われて死ぬかもしれません。親にだめだと言われ続けた子どもは何もできないと思いこんで、奴隷となって働くだけの生涯を終えるかもしれません。

そのような不完全なシステム下で、国の境すら越えてはいけないような人間社会は、土地は誰かのものであり、海は誰かのものであり、山も誰かのものなので、全ての人が才能を発揮できる場を自分で必ずしも選択できない環境といえます。

家族の病を自然治癒で治してきた私を、家族は「治せない医師」より確かだと思っていますが、折角ライセンスを取ってアロマの仕事に携わっても、精油を信じられずに不調の際は医師に頼っている人もいるという話を聞くことがあります。もちろん外科的な処置や緊急を要する場合医師の判断も必要ですが、アロマの知識があれば自分でも活用できるものがたくさんあるのです。

本能的な判断より「恐怖」が上回ってしまうと自分の感覚よりも「机上」を信じる傾向が強いように思います。

人事担当者が目の前の「人」よりも「履歴書」を重んじるのと同じですね。机上の文字はある程度の基準にはなりますが、ダイヤの原石を見つけ出す目を持っているのは、いつの時代もその「個人」にフォーカスできる人なのですよね。

残念なことに、これら不完全なシステムや感覚器の弱体化された社会の中では、この狭義な価値観の中でしか才能は認められないことが多く、「王道」に向かって「努力」しないと社会不適合とみなされます。

私などはまさにその不適合者ですが(笑)

本当なら、子の得意とする才能は、せめて中学や高校を出るまでに見つけてあげて、本人が苦痛なくそこに向かう努力を続けることで、成功に対しての近道を導くのが親や大人たちの仕事でしょう。

劣等感を強く持っている人達は、もしかしたらこの「狭義の価値」の中ではなく、外の世界に得意とするものがあったのかもしれません。

だから一般的に言われる「努力」の価値は簡単に推し量ることはできません。

自分がどこに目標を置くのか、軌道修正の基準は何なのか、死ぬまで継続できるのか、とりあえずの誤魔化しなのか・・・・・きっちりと自覚し、耳の痛いことも傾聴し、せっかくの命の時間をやりたくもないことに使って「努力」と呼ぶのだけはやめたいものです。

幸福な社会を個々が創りましょう。

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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