神聖なるもの

早朝に山から昇る陽光を浴びて、庭に出て草木の香りを有難く吸い込んで、朝ごはんの用意をする。

生命に意識があるなら、動物だけでなく昆虫や植物にだってあるかもしれない。

大好きな羽黒蜻蛉は、どうみたって仲間と一緒に遊んでいた。

夕方になると川の傍の岩の上で、10匹ほどが眠りにつく。晩夏にそれが1匹1匹見えなくなっていくのは、一緒に住むハムスターズがいなくなった時のように哀しい。

一生懸命に巣を張る蜘蛛や、バラの葉を切ってどこかに運んでいくカミキリムシ。もちろんバラたちは私にとっては特別な存在なのだけど、地球との共生に抵抗してまで人間の定義した「綺麗な葉と花」を保つものではない。ここはカメムシがとても多くすぐに花を食べに来るのだけど、しっかりと自然治癒力を高めながら、一片も傷つくことなく咲いた一輪の花を称えてあげたい。

米粒を無駄にしないように、仏飯で作った乳酸菌のエキスを畑と庭に毎日まいている。あの米粒が稲穂となり、生命の身体に入り、また有用菌となり土に還る。

化成肥料のように効率のよい仕事はできないけれど、小さな神聖なる生命によって庭のトマトはたくさん実をつけた。循環の中に生きて死ぬことが、地球が与えた運命でもあるので、他生物に倣ってそこに抵抗しないようにすることが最も賢明な生き方なのではないかと思う。

不自然な環境に置くシェリーも、なるたけそのような光輝く命を燃やしてほしいと、多くの野草や畑の野菜に感謝して分け与える。

今更ながら環境問題などで金儲けをもくろむニンゲンに心底うんざりしているが、家電を最小限に抑えた生活を35年続けてきても、まだ電気ガス水道のない暮らしをしたいと望む私などは、新しいモノをまだ創りつづけてシステムを塗り替えたりせずに

「ここでシステムの洗脳は終わりました、生きたい人はどうぞご勝手に」

とだけ告げてくれれば手っ取り早いのではないか、などと考えてしまう。

親が子をコントロールしたり、恋人をコントロールしたり、正社員がバイトをコントロールしたがるように、ニンゲンのパターンは面白いほどに決まっていて、どんなに馬鹿げていてもその類にとっての支配の蜜は、快楽物質が多く放出されるものなのだと想像できる。SEX依存やアルコール依存など、快楽物質のなせる業は面白い。

生まれてからずっと、煌く生命が自分の周りに溢れていても何も視えず、コピペの知識を脳に貼り付けつづけた結果、必然的に自分で選択判断することが出来なくなり、まるで赤ん坊のようにママやパパの代わりの誰かに言われたとおり動くだけのマリオネットができあがる。

しかしそれもまた自然の摂理であり、自己陶酔するニンゲンたちも似たり寄ったり、一つの方向に向かっていく。もちろん自分も同じく。

生まれた者は必ず死ぬ。生まれた種はいつか絶滅する。

 

もしニンゲン同士で殺し合い奪い合い絶滅していくのであれば何の問題もないけれど、関係のない多くの他生物を巻き込むような代物を延々と創りつづけることに憂う。

いつだって他生物はニンゲンより美しい。自分が醜い生き物に生まれたことはきっと死ぬまで払拭できない。

せめて自分の世界くらいは少しはマシになるように、美しく神聖な生命を見つめる心の目を失わないようにしたい。

個々で視力が違い性質が違うということは、五感も第六感も異なっているということで、その積み重ねがいま自分の視える世界を形成している。

例えば価値基準がそうで、肩書や学歴、ブランドもの、通帳の印字の桁などがわかりやすく、個人が何に拘り、何でニンゲンを判断しているかという『言葉』と『行動』でその世界観はわかる。

平面の15度しか見えない人もいれば、立体的な360度無限に広がる世界を視ている人もいる。

そうして積み上げられたそれぞれの『思い込み』の世界に生きているのが私たちであって、美しさや神聖ささえ、自分で意味づけさえすれば、今この瞬間に得られるものなのだ。

 

自分だけ助かればよいというような意識で生きていれば、例外なく同類が磁石のように集まっていく。

恐怖に苛まれる人も例外なく同じ類で集まっていく。

コントロールしたがる類は何かにコントロールされる。支配と依存はぐるぐる回っている。

皆、自分で好きな世界を創っている。

自分と違うものを排除したがるのがパターンなので、あまり気に病まず、価値観の異なる集団からは一線を画す方が自己実現は速い。

ただし、自分だって地球の塵のような一生命ゆえ、他生命の優劣を決めることはできない。

個人的にはどんなに嫌悪するニンゲンも、きっと何か役割があるから地球が産みだしたわけだし、いま生きていると考えざるをえない。

ゴキブリも蚊もダニも同じだ。だから存在を認めることが最低限の愛だと思う。

地球上では、自己世界という幾つもの層に分かれ、互いに姿が視えてはいるものの誰も同じ世界に生きてはいない。

言葉を放つとき頭の中に思い描いた自己世界を基準にして話すものだが、同じだと思い込むことは軋轢を生む。

何かを人に話すとき、それはニンゲンだけが便宜上創っているお話なのか、地球の仲間つまり全生命体に共通することなのか、はたまた日本人にしか通用しないお話なのかなどの前提条件を頭の中で整理しよう。

そう考えれば

「自分が正しい、あなたはおかしい」

という言葉を放つことが簡単でないことはお分かりいただけると思う。それを言い合えるのは同じ層の世界に生きる者同士だけである。ほかのどの層にも通用しない。

誰も誰かの人生を強制することはできないし、ニンゲンが他生命をコントロールしようとすることなどは、多分地球から視れば滑稽極まりないだろう。

 

地球は受精卵のように様々な細胞を産み出した。

私たち人間はもしかしたら、地球の老化の一過程における自然発生的な癌細胞だったのかもしれない。人間の創ったお話の外に視点を移してみれば、その地球があることだって真実かどうかはわからない。

何処まで考えてもニンゲンに真実は理解できないという小学生時のあの考えを塗り替えることはできなくて、半ば諦めの境地になり、微細な自分の命の中に美しき他生命を取り込んで昇華していきたいと願うのみになった。

とはいえ、今日も数えきれない命に助けられて生きている。

孤独になりようのない世界。

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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