価値観と相互扶助

自分の強みとか才能など、なかなか気づけない人が多いかもしれませんが、日本人が持つ忍耐力を間違った方向にさえ使わなければ、生きている時間だけ何かを積みあげ、近しい人々と役割分担をして平和的に生きていくことも可能だと思います。

本来お金の授受がなくても相互扶助の精神と責任感さえあれば小さなコミュニティなどは十分まわるはずなのです。現代でも地球と共生する原住民や、文化的な生活をしながらも自立した集団で生きるAMISHなどは、そこを徹底しているのではないかと想像します。

子供であっても自立心を養い、自分にできる仕事をするという当たり前のことができるように精神を育むことが大切です。親が孤独を埋めるためや、虚栄心を満たすために支配したがったり、自己の劣等感の正当化のために子を競争させたりすると、自立心や相互扶助精神はは育ちません。親がまず自覚、自立することが先決で、その背中を見て子供たちはひとりでに学んでいくものなのです。

自然の摂理というのは誰がやっても間違いなくその方向にいくもので、動物だけでなくニンゲンにもそのパターン化されたものは見受けられます。そこを基準に考えれば、偏差値や銀行の印字の桁で競い合うような優劣は関係なくなります。

子供の頃、疑問に思わなかったでしょうか?言葉と行動が異なる教師や近所のおばちゃんたち。もしかしたら、親もそうだったかもしれません。自分の身体に流れる彼らの遺伝子を正当化したいがあまり、かつて違和感のあった大人の姿にさえ『仕方ない』と受け容れ、行動することを恐れる記憶喪失にはなりたくはありません。その代わりに、素性のわからないアルバイトライターが書いたネット上の記事を鵜呑みにして、自分の行動を即座に変えたりするのは賢明ではないでしょう。

自分のルーツを信頼し、悪しきものは淘汰し良いものは継承し繁栄させることの方が素晴らしいと考えます。何より自覚が大切です。ルーツ上にある負の連鎖は素直に認めて食い止め、良いものは強化すれば皆に役立ちます。これも「歴史から学ぶ」というアレですね。

日本人のよく使う言葉、「食うために働く」という大義名分。それを果たすために、無理矢理生きることと関係のない仕事に命の時間を費やすのか、生きることに関係のあるものに注力していくのか。現代のシステム下では、このバランスが容易ではありません。ただ、生きることに関係のある仕事をしながら、仲間同士で助け合って豊かに暮らすことは可能だと思います。

それはまず小さな集団、家族から始まります。もし家族がいなかったとしたら同じような境遇の友人同士や、自分が結婚したその瞬間から始めることもできるでしょう。親子であっても別のニンゲンなので分かり合えない時期はあります。子供の力をつけるため時間を置くことも必要でしょう。それを親子共に諦めた時、関係構築は破綻します。どちらかが諦めなければ、相互扶助関係は継続できるものです。

根底にあるのは信頼関係で、誰かが誰かに助けてもらえるとか利用しようなどと思った瞬間にそれは崩れます。リスクは個人の持つ責任感の度合いです。もし世界を分断するなら、死ぬまで働く覚悟のある自立した集団と、依存や搾取が潜在的に在る怠惰な集団とに分かれてほしいかもしれません。

動物は自分のためにしか生きない

他生物と共生しなくてはならないこの世界では、誰かに環境を守れと言われなくても、欲深さと傲慢さの断捨離が何より大切です。適度なところで満足するという抑制は平和的な世界の可能性を広げます。愛されたいと欲するアスファルト上の人々は、さらに新しい何かを作り問題解決を図るのではなく、真の断捨離をして、素直に愛し合う平和的な集団構築に力を入れればよいように思います。

現に私は三度の離婚で一度も裁判を起こしてはいないし、一度目はなぜか資産も全額とられましたが幸福の価値基準が真逆だったため、私はお金と引き換えに自由を得ました。二度目は二年間話し合いながら円満離婚するに至りました。相手の自由を尊重し私も自由になりました。養育費はもらっていません。三度目は相手と相手の親の希望で戸籍を抜きました。形や世間体が大切な価値観のニンゲン達と、形より心の在り方に拘る自分との違いです。

私にとっては、一度目の夫や親は遠縁のような他人で、二度目の夫と両親は定期的に会ったり話したりする家族のままの他人です。三度目の夫は役割分担できるなら共生してもよい家族のような同居人という立ち位置で、加えて血族が私の家族集団に入ります。その家族集団にはいつも富を分け与えたいと思っていますし、それをずっと続けてきたつもりです。(相手は富を富とも思っていない場合もあるけれど)

富とは裸になっても持てるもの

ですから、現代の日本人が価値あると思いこんでいるものを失ったときも私の富はなくなりません。

義務教育下でも、価値あることと無い事の選別をしながら授業を聴いていました。幼少期から積み上げたほうが良いと思ったことは継続し、疑問は何十年でも頭の片隅において、自分で何度も確認して自分なりの答えを出してきました。いまだに答えがわからないこともあります。生物である人間ごときに真実を解明できることなどありはしないと子供の頃から考えていたので仕方ありません。

でもこれは人生の遊びみたいなもので、極めて個人的なもの。

何の才能もなかったかもしれない病弱な自分が、必要だと思って継続してきたことが半世紀近く積みあがっています。リアルな時間の経過により、青二才にはできないことが出来るようになりました。ただ生物として人間として、最低限の当たり前のことをしてきただけの人生が、驚くことに誰かの役に立つこともあるようなのです。なので相互扶助の関係性がすんなり回ることが多くなったのでしょう。

たとえば、このモーニングセットを食べたい人がうちにやってきます。商売にはしていません。商売でないからこそ個人への想いを100%こめてパンを焼き、野菜を収穫し、珈琲を淹れ、その人の細胞が歓喜するように作ることができます。訪れる人は、頼みもしないのに私の提供する食に価値に見合うものを持参してくれます。

先日はこれをもらいました。北浜レトロの紅茶二缶。まだ店の外まで人が並んだりしない頃によく通ったお店です。

時には「いま何が必要?」と問うてくれる人もいます。お金の授受はなくてもこちらも助かり、互いに喜んで食を共にすることができるのは有意義な循環です。

畑の隣人たちが時々くれるのはうちの畑では育っていないものです。ちゃんとうちの畑を確認してから用意してくれています。その気持ちが充分伝わっているから、こちらはひよっこの作った野菜ではなく、隣人たちが行かないような場所へ行った際に手に入れた村では売っていない食べ物などを返すことにしています。

これは娘がプレゼントしたぬいぐるみのお返しにと外国人家族が持ってきてくれたもの。ビーガン対応の品質の良いモノらしく、私たちのお昼ごはんになりました。

これらは皆、物々交換のようなものです。畑仕事をしている人は野菜や果物を分けてくれて、ミシンを仕事にしていた人は洋服の修理は任せてと言ってくれます。こちらも食ベものだけでなく、様々な智慧を提供できるので、何かあったら任せてということもできます。

基本的には誰かが誰かを喰わせる理由はありません。生きたければ自分に出来ることをし続けなくてはならないのが自然の摂理。先に述べたように他者から搾取依存する感謝なき人は群れで生きることから逸脱していて共生はできないでしょう。

けれど、世界とは逆行して、私は自分の群れを縮小していっているかのようです。閉じ込めようとしなくても、自分から動かないような生活を選択していて、その代わりに自己完結力を高めていくことにエネルギーを使えています。けれども家族は多くの他人と関わっていたいようで、各々が好きで外に働きに出るなら、それは彼らの自由でもありますし喜ぶべきことです。共生するにあたり、役割をそれぞれが自覚し、個人の価値観とのバランスをとることで循環できるようにする形態を、しなやかに流動的に構築していくことが私の役割のひとつでもあると感じています。

そういう視点での『働き』を私自身は仕事と捉えていて、年老いた親の介護も立派な仕事なのです。出来ることなら他人の手を借りずに全員でまとまって暮らし、助け合いながら生きていける世界が最高です。

信じることは愛すること

結局この相互扶助関係にも、愛が必要になってくるというわけです。

責任感は他者に対する愛

ここでいう責任感とは奴隷業を全うするようなものではありません。責任という言葉の定義をしっかり認識しておけば、あなたの人生で役に立つことは間違いありません。

 

言霊とはファンタジーの創造性のことです。

同じ言葉でもあなたを幸、不幸どちらにも導く意識の違いがあるのです。深呼吸して、自分がその行動によって幸せになるのか否かきちんと判断しましょうその区別ができれば、誰と相互扶助できるかは簡単にわかるはずです。

 

地球がちょうどよいバランスで美しく生きていけますよう。

万物が懸命に生きて死んでいけますよう。

出したエネルギーは即時本人に還りますよう。

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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