事象は様々な偶然が織り成す必然の出来事であって、自分がそれをひきおこしている。
息子のように法規を守らないタクシーに巻き込まれて下半身不随になったとしても、彼はやはり
「あのとき急いで出なければ」
「あの日に学園祭に出席しなければ」
等と自分をかえりみるほどにかえりみたはずだ。私も彼の事故については、
「あのときこうしていれば」
という思いはさすがに何度かわき上がった。
しかし、どんなに辛くても過去に戻ることはできない。
事象というのは様々な偶然が織り成す必然の出来事であって、善に見えても悪に見えてもそれを起こしてしまったとするなら、変えるべきはやはり自分であるように思う。
とても辛いことが起きるときもあるだろう。
悲しいことが起きるときもあるだろう。
自分はなにも悪くないと言いたくなるだろう。
法律の上では確かに悪くはないときもあるから。
でもやはり自分を振りかえるしかない。
ただし、失敗は成功のためにある。
それを二度と繰り返さないという強い意思は、自分がそれを引き起こしたのだという自覚からしか生まれない。
事実を事実として受容する強さを持っていたい。
それでも何かを自己責任だと考える人と、他に責任があると考える人とがいると思うので、とどのつまりそれらは単なる好き嫌いで、どちらが正しいとか間違いだとかは個人には言い難い。
何かを正しいと言える人はどこにもいない。
その背景を本当に知っていないと何が根源なのかわかり得ないし、祖先から続く連続した命の営みの流れで起こる事象だとするならば、今生きている人だけに責任を負わせることもできないのかもしれない。
それが人間も含めた地球の流れだとしたなら、何もかもにイエスというしかないのかもしれない。
すべての生物の哀しみが癒えますように……
今日もみなさんありがとう。